メルロ=ポンティにおける呼吸の哲学――『眼と精神』を中心に

 本稿では、哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908~1961)の身体‐絵画論をおもに「呼吸」に着目して読み解く。彼は身体論と絵画論をオーバーラップさせた特異な著書『眼と精神』(L’Œil et l’esprit, 1961)で、次のように述べている。

 

インスピレーション〔霊感=吸気〕と呼ばれているものは、文字通りに受け取られるべきだろう。まさに《存在》のインスピレーションとイクスピレーション〔呼気〕、《存在》のうちでのレスピレーションというものがあるのであって、ここでは能動と受動はほとんど見分け難く、もはや誰が見、誰が見られているのか、誰が描き、誰が描かれているのか分からないほどである。[1]

 

 何を言っているのかはさておき、まず注目したいのは、呼吸すなわち息を吸うことと吐くことという身体における出来事と、着想と実行という創造活動とが、重ね合わせて論じられているということである。画家ないし芸術家は、息を吸うように着想し、息を吐くようにそれを実行する。メルロ=ポンティはこのように、身体と絵画を別々ではなく二重にして論じている。その際に彼が用いているのが、「呼吸」という比喩であり、「熱気」「生気」「湿気」といった気体の比喩である(ただしこれらの比喩は「文字通り」にとられる必要がある)。本稿ではこうした比喩に着目して身体‐絵画論の核心に迫りたい。

 

 さて、では絵画の創造活動がそれであるところの存在の呼吸とは何か。これを理解するために、そもそも呼吸とは何かを考えてみよう。

 呼吸、それは息を吸うことと息を吐くことであり、そうすることによって細胞活動に必要な酸素を取り入れ、不要な二酸化炭素を吐き出すことである(細胞活動自体も呼吸と呼ばれる)。それは「更新」の働きである(後述)。

 それはいつの間にか、つねにすでに始まっている。

 それはふだん意識されることがない。

 それはどんなときに意識されるのか。人前で話すことになって緊張したとき。スポーツの試合で体がスムーズに動かないとき。つまり、心身が「気負っている」とき、あるいは気負った心身が障害に直面するとき。そして、何らかの「レッスン」をするとき、そうして神経を研ぎ澄ませるとき。

 それは意識されるとどうなるのか。余計に乱れる場合もあれば、整う場合もある。呼吸を意識することが、生を実感することにつながることもある。

 

 存在の呼吸とは何か。存在の呼吸とは、存在を呼吸することであり、同時に、存在が呼吸することでもあるだろう。先に引用した文の直前に挙げられている、画家アンドレ・マルシャンの以下の言葉がヒントになる。

 

森のなかで私は幾度となく、森を見ているのは私ではないという感覚を抱きました。木々こそが私を眺め、私に語りかけてくるのだという感覚を抱いたことが幾日もありました……。私はと言えば、そこにいて、耳を傾けていました……。画家は宇宙に貫かれるべきであり、宇宙を貫こうと願うべきではありません……。私は内的に沈められ埋められるのを待ち受けているのです。おそらく私は浮かび上がるために描いているのです。[2]

 

 画家は宇宙=世界に没入し、貫かれ(吸気)、それを自らのスタイルに従って画布に定着し、世界から浮上する(呼気)。おそらくこれは、ヴァレリーの言葉(とそれを敷衍したメルロ=ポンティの言葉)にも対応している。画家は「自分の身体を運」び、「物に近づきそれを掴み取」る(吸気)だけでなく、「あとじさりし」、遠ざかることもする(呼気)のである(ヴァレリー「邪念その他」)。「画家が世界を絵画に変えるのは、世界に自らの身体を貸し与えることによってである」[3](吸気)とともに、世界から身体を返し戻してもらうことによってである(呼気)。

 画家にとっての吸気とは、メルロ=ポンティのもうひとつの身体‐絵画論「セザンヌの疑惑」(Le doute de Cézanne, 1948)の言葉を使えば、「モチーフをつかむ」ことである。セザンヌは、絵画を作りあげていくただひとつの動機となる「全体として、絶対的な充溢の状態においてとらえられた風景」を「モチーフ」と呼んでいた。[4] モチーフを「つかむ」には、散乱するいくつもの眺めを、人間的な観念や科学に頼らずに(「宇宙を貫こうと」せずに)、とりあつめ接合する必要があった。そのために彼は「観念がそこから抽出され、われわれにそれらを分ちえぬものとして示す、根源的な経験」に立ち戻らなければならなかった。主著『知覚の現象学』(Phénoménologie de la perception, 1945)も引いておこう。「私が光景に身を委ねる運動は、根源的なもの、ほかの作用に還元できないものと、認められなくてはならない。意味の定義や知的な仕上げに先立つ一種の盲目的な認知において、私は光景に加わるのである。」[5] 画家は世界に没入し(光景に身を委ね・加わり)、無垢のままに、評価なしに、物そのものに視線を注ぎ、野生の意味を汲み取るのである。[6]

 画家にとっての呼気とは、作品制作による世界への応答である。画家は眼で聴き、手で応答するのである。芸術と(芸術の)歴史について論じている「間接的言語」(1969, Le langage indirect)において、メルロ=ポンティはこう言っている。

 

超えながら継承し、破壊しながら保存し、変形しながら解釈する、つまり新しい意味をそれを呼び求め予料していたものに注ぎこむという、その三重の捉え直しは、単におとぎ話の意味での変身、奇跡や魔法、暴力や侵略、絶対的孤独における絶対的創造なのではなく、それはまた、世界や過去、先行の諸作品が彼に求めていたものへの応答、つまり成就と友情でもあるのである。[7]

 

 創造活動とはいかに孤独なものに見えようとも世界への応答なのである、と彼は言う。

 

もしわれわれが画家のうちに身を置いてみるならば、しかもそれを生きるべく彼に与えられた身体的宿命や個人的冒険・歴史的事件などが、彼の世界への根本的な関わり方を示す何本かの力線を中軸として、絵を描くという行為に組織される瞬間の画家の立場に身を置いてみるならば、われわれは、彼の作品が、そうした所与の結果ではないにしても、つねにそれらに対する応答なのであって、(…)絵画に生きるということも、依然としてこの世界を呼吸することなのであって、われわれは、画家も人間も、文化の土壌の上で、それが自然によって与えられた場合と同じように「自然的に」生きているのだということを理解しなければならないのである。/われわれは、画家が絵画の歴史と取り結ぶ関係そのものをさえ、「自然的なもの」の様態で考えるべきなのだ。[8]

 

 応答の手前に「反芻」のモーメント、間、溜めがある。画家の作品は、彼に与えられた世界状況の単なる結果ではなく、それを反芻し変形して吐き出したものである。「実生活に長けていようが疎かろうが、世界を反芻することにかけては並ぶ者なき至高の存在として、画家はそこにいる」。[9] 与えられた状況、所与とは、「空気」や「環境」とも言い換えることができる。人はいくらかの空気を吸って、体系的な変形を加えて、それとはいくらか異なるものを吐き出す。「世界の諸所与を或る「首尾一貫した変形」に従わせたとき、意味が存在することになる」(「間接的言語」)。[10] その意味をかたちにすること、成就することが、応答するということである。応答以前には切迫する意味の熱気がある。「セザンヌの疑惑」にはこう書いてある。「「着想」は、「実行」に先立つことはできない。表現以前にあるのは、漠とした熱気だけなのであって、作りあげられ理解された作品だけが、われわれがそこに、無というよりもむしろ何ものかを見出すべきであることを、証しするようになるだろう」。[11] なお、呼気が吸気に先行するというこのロジックは、応答が呼びかけに先行するという、哲学者ジャック・デリダが『アデュー』(Adieu―à Emmanuel Lévinas, 1997)で語っている論理に等しい。

 

応答することから始める必要があるのだ。ということは、始めに、第一の語は存在しない、ということだ。呼びかけは応答から出発して初めて呼びかけとなる。応答は呼びかけに先んじ、呼びかけに先回りして〔呼びかけを迎えに〕到来する。呼びかけが応答以前に第一のものであるとしても、それは、呼びかけを到来させる応答を予期する〔応答においてみずからを待つ〕ためにすぎない。[12]

 

 メルロ=ポンティは言う。性質、光、色、奥行きが「そこ」にあるのは、それらを身体が迎え入れ、それらが身体のうちに「こだま」を呼び覚ますからである。[13] (「そこ」という言葉が強調されているのは、それが単なる座標空間内のある領域ではなくて、私たちの身体と関係するかぎりでの場であることを言いたいのだろう。)世界を(真に迫って)知覚することからして、身体を通してシステマティックな変形を加えることであり、呼びかけに応答することであって、存在を呼吸することなのだ。そしてそうした「こだま」、「肉的応答」のひとつのかたちとして絵画があるのであり、絵画創造ひいては芸術創造一般はいわば存在の深呼吸なのだ。反芻を経た見えるものたる絵画は、「自乗された見えるもの、第一の見えるものの肉的本質ないし図像」である。[14] 制作された絵画あるいは名詞形での呼気は空気ないし雰囲気となり(環境・歴史となり)、いずれ、他者――自己も含むだろう――にまた霊感を与える。

 

画家は、何か或るイメージを作りあげることしかできなかった。このイメージが、他の人々に対して生気を帯びるようになるのを待たなければならないのだ。そのとき、芸術作品は、あのばらばらの生をひとつに結び合わせるようになるだろう。そのとき、芸術作品は、もはや、とりついて離れぬ夢やいつまでも続く錯乱として、それらの生のうちのひとつのなかにだけ存在するということはなくなるだろうし、絵具を塗った一枚のキャンバスとして、空間のなかにだけ存在するということもなくなるだろう。それは、或る永久の獲得物として、いくつかの精神のなかに、おそらくは可能なるすべての精神のなかに、分割されることなく住まい続けるようになるだろう。[15]

 

絵画は見えないものを見えるようにする。世俗的な意味での見えるものは己れの前提――両立不可能な複数の見えの戯れ、全体的可視性――を忘れている。絵画は全体的可視性を再創造し、そうすることで見えるもののうちに捕われていた亡霊を解き放つ。絵画によって、見えないものが見えるようになる。絵画は「身体のなかで物が熱気を帯びて生まれてくるその秘かな生成」[16]を目指しているのである。

 「肉的応答」という言葉が出たが、この「肉」とは、「見えるもの、動きうるものとして、私の身体は物の仲間であり、物の一つであり、世界という織物のうちに編み込まれている(…)他方、私の身体は見、動く〔自分を動かす〕のだから、自分の周りにぐるりと物をつなぎとめており、(…)世界は身体と同じ生地で仕立てられている」[17]と彼が言うときの、この「生地」に等しい。なべて私たちは呼びかけと応答のように避けがたく絡み合っている。のっぴきならないかたちで世界に織り込まれている(「世界内存在être au monde」)。[18] 沈黙のうちにつながれている。身体をもつとはそうした「つながれ」に浸り感じ合うことなのであって、そこに、生きることの根源的な受動性がある。そして私たちを常時つないでいるのは空気ないし大気である。[19] 空気による、微粒子によるつながり。身体の気づき――身体に気づくこと、身体が気づくこと――は、こうした根源的なつながれに気づくことなのであって、だから呼吸を意識することが生を実感することに通じる。私たちに必要なのは空気を読むことではなく空気を感じることである(空気の読み方は空気に書いてありプログラムのようにインストールされてしまうのだが)。[20] 存在の呼吸について、「ここでは能動と受動はほとんど見分け難く、もはや誰が見、誰が見られているのか、誰が描き、誰が描かれているのか分からないほどである」という冒頭の引用は、上に述べたような絡み合いのことを言っている。存在を呼吸しているのか存在が呼吸しているのか、もはやわからないのである。

 存在の呼吸とは存在の更新である。(存在を呼吸するとは存在を更新することであり、存在が呼吸するとは存在が更新することである。)空気があって、それを吸い、一定の間(反芻の時間ないし肺のプロセス)があって、息を吐き、それがまた空気になって、また空気を吸う、「空気→吸気→間→呼気→空気→吸気→……」という流れは、閉じた円環を描くかに見えて、螺旋状に昇っていく軌線を描く。日々息をするように知覚するたびに、世界の見え方は少しずつではあるが全体的に新しくなる。出来事としての知覚、これまでのパースペクティヴから新しいパースペクティヴへの移行の繰り返しは、真理への絶えざる接近である。[21] 存在の深呼吸の産物たる絵画は、私たちの吸気を大幅に変え、呼気を変え、世界を変える。絵画は私たちを「別な世界」に出会わせる。「間接的言語」から引こう。

 

「色や線のある種の思いきった均衡や不均衡は、そこに半開きになっている扉が別な世界の入り口であることを発見する人を動転させる」。別な世界、――われわれはこれを、画家が見ているその同じ世界であり、それ自身の言葉を語ってはいるが、しかしそれを後ろに引っぱりあいまいな状態に引き止めておこうとする無名の重圧から解放された世界、と解しておこう。実際、画家とか詩人が、どうして世界との出会い以外のものでありえようか。抽象芸術でさえ、世界を否定したり拒否したりする或る仕方以外の何について語るのか。幾何学的な面や形を厳しく守り、それらに憑かれてみたところで、そこには、たとえ恥ずべきあるいは絶望した生活にもせよ、まだ生活の匂いがあるのだ。絵画は、散文的な世界の秩序を組みかえるのであり、そしてもしお望みならば、詩が通常の言語を燃やしてしまうように、物を生けにえにするのだ、と言ってもよい。だが、人々が再び見直したり読み返したりしたがるような作品の場合には、無秩序はつねにもう一つの秩序なのであり、新しい等価価値の体系は、他でもない、まさにこの動転を要求するのであって、そうした等価価値の間の通常の結びつきが断ちきられるのも、事物間のより真なる関係の名においてなのである。[22]

 

 扉はつねに半開きになっており、世界との出会いが待ち受けている。存在が切迫している。画家は新たな世界を啓示する。「芸術家ひとりびとりが仕事を改めて初めからやり直すのであり、世に伝えるべき新しい世界をもっているのである」。[23] 新たな世界への移行は生地の縫い直し・編み直しを必要とするのであり、編み直すためにはいったんつながりを断ち繊維を引き裂かなければならないこともある。これが「あとじさり」ということの意味なのである。新しい秩序が動転を経て人々に受け入れられるとき、画家の孤独はひとまず解消されることになるだろう。が、「実在するものの表現とは、限りない仕事」[24]であって、「あと何百万年経とうと、もしまだ世界があるならば、画家たちにとって世界はまだ描かれるべきものであるだろうし、世界はついぞ完全に描き終えられることなく終わるだろう」。[25] 過去を捉え直し更新(アップデート)する作業には終わりがないのである。

 そしてその更新作業は画家だけの役目ではなく、呼吸をするすべての者の役割である。作品が吹きこむ新鮮な空気は、鑑賞者が毎日紡ぐ言葉に乗って伝播する。作品鑑賞はどこかで確実に鑑賞者を更新しており、作品について直接論じなくとも、彼あるいは彼女のが吐く言葉は作品のこだまであり批評になっている。

 また、付け加えるならば、世界の更新を記述する務めを負っているのが哲学である。メルロ=ポンティは言っている。「哲学とは哲学自身の出発点に立ち帰って、繰り返しこれを体験し直すことである。哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する」。[26] 世界の始まり・発生、世界が私たちに触れるところに立ち帰り、記述を絶えず再開し続けること、繰り返し始めること。それはいつの間にか行われている呼吸や自らを取り囲んでいる空気に意識を向け、それをあらためて感じ直すことだ。

 

 このように、メルロ=ポンティは、私たちを取り囲みつなぐ空気と、呼吸による不断の更新について思考している。生きるとは生きなおすことである、と言い切って終いにしたい。

 

 

[1] モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』、『『眼と精神』を読む』所収、富松保文訳、武蔵野美術大学出版局、2015年、第17段落、p.96.

[2] 同書、同段落、p.95~96.

[3] 同書、第5段落、p.67.

[4] モーリス・メルロ=ポンティセザンヌの疑惑」、『意味と無意味』所収、粟津則雄訳、みすず書房、1983年、p.21,22.

[5] モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、中島盛夫訳、法政大学出版局、1982年初版、2009年新装版、p.308.

[6] 前掲『眼と精神』、第4段落。

[7] モーリス・メルロ=ポンティ「間接的言語」、『世界の散文』所収、滝浦静雄訳、みすず書房、1979年、p.96.

[8] 同書、p.106.

[9] 前掲『眼と精神』、第4段落、p.65~66.

[10] 前掲「間接的言語」、p.87.

[11] 前掲「セザンヌの疑惑」、p.24.

[12] ジャック・デリダ『アデュー』、藤本一勇訳、岩波書店、2004年、p.39.

[13] 前掲『眼と精神』、第11段落。

[14] 同書、同段落。

[15] 前掲「セザンヌの疑惑」、p.27.

[16] 前掲『眼と精神』、第16段落、p.93.

[17] 同書、第9段落、p.72~73.

[18] 加賀野井秀一が言うように、「世界内存在は、すでに意味連関を意味連関として把握できる主体や、すっかり意識になりきれる主体のレベルで語られてはならない。主体としての私の意識が登場するよりも前に、「匿名の私」としての諸器官は、すでに世界をまさぐり始めており、知覚は、前人称的、前客体化的な層において生起している。つまるところ身体は、ハイデガー的「現存在」やサルトル的「対自存在」よりもはるかに先がけ、すでにのっぴきならぬ形で世界と関わってしまっているのである」(加賀野井秀一メルロ=ポンティ 触発する思想』、白水社、2009年、p.138)。しかし世界内存在が常に世界と「融合」しているかといえば必ずしもそうではないだろう。世界からの浮上のモーメント、生地の裁ち直しのプロセスがある。

[19] 「われわれの生は純粋な「存在」ないし「客観」という目も眩むような光に向っているどころか、言葉の天文学的意味において大気(atomosphére)をもっている。われわれの生は、感性的世界もしくは歴史と呼ばれるこれらの霧に絶えず包まれている、すなわち身体的生に属するひと(on)と人間的生に属するひと(on)とに包まれ、現在と過去とに包まれているのである。これらは、数多の身体と精神の入り交じった全体として、さまざまな表情や言葉、行為の混淆として、われわれの生を包んでおり、それぞれが一つの同じ何ものかの極端な差異、偏差なのだから、それらすべての間に、それらに対して拒むことのできないこうした連関が伴っているのである。」(モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えざるもの』、中島盛夫監訳、伊藤泰雄/岩見徳夫/重野豊隆訳、法政大学出版局、1994年初版、2014年新装版、p.138.)

[20] 前掲『眼と精神』、第28段落。

[21] 「新たな現れは、たんに過去の知覚の誤りを訂正するだけではない。それは過去の現れと共存し続け、それに回顧的に意味づけを付与することによって、それを相対的に正当化してもいる」(廣瀬浩司「身体の根源的な制度化――メルロ=ポンティ存在論的身体論――」、筑波大学紀要『言語文化論集』53号所収、2000年)。

[22] 前掲「間接的言語」、p.90.

[23] 前掲『知覚の現象学』、p.314~315.

[24] 前掲「セザンヌの疑惑」p.19.

[25] 前掲『眼と精神』、第42段落、p.193~194.

[26] 前掲『知覚の現象学』、p.14.

 

 

参考文献

モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、中島盛夫訳、法政大学出版局、1982年初版、2009年新装版。

モーリス・メルロ=ポンティセザンヌの疑惑」、『意味と無意味』所収、粟津則雄訳、みすず書房、1983年。

モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』、『『眼と精神』を読む』所収、富松保文訳、武蔵野美術大学出版局、2015年。

モーリス・メルロ=ポンティ「間接的言語」、『世界の散文』所収、滝浦静雄訳、みすず書房、1979年。

モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えざるもの』、中島盛夫監訳、伊藤泰雄/岩見徳夫/重野豊隆訳、法政大学出版局、1994年初版、2014年新装版。

廣瀬浩司「身体の根源的な制度化――メルロ=ポンティ存在論的身体論――」、筑波大学紀要『言語文化論集』53号所収、2000年。

加賀野井秀一メルロ=ポンティ 触発する思想』、白水社、2009年。

ジャック・デリダ『アデュー』、藤本一勇訳、岩波書店、2004年。