ブランドものの破壊力とばあちゃんの思い出――雪舟えま『たんぽるぽる』十首評

タカハシの天体望遠鏡みたいおまえのふとももは世界一

逢えばくるうこころ逢わなければくるうこころ愛に友だちはいない

玄関の鉢に五匹のめだかいてひろい範囲がゆるされている

信号が果てまでぱーっと青くなりアスリートだと思い出す夜

どこでそんな服をみつけてくるのだろうこのひとにわたしをぶつけよう

うれいなくたのしく生きよ娘たち熊銀行に鮭をあずけて

パソコンをつけるの? きっとUFOのことでもちきり 辛いだけだよ

妖精の柩に今年はじめての霜が降りた、という名のケーキ

ばあちゃんは屑籠にごみ放るのがうまかった(ばあちゃん期Ⅱ期まで)

あいしてよ桜 ギターを弾くときにちょっぴり口のとがる男を

 

雪舟えま『たんぽるぽる』(短歌研究社、2011年)

 

タカハシの天体望遠鏡みたいおまえのふとももは世界一

天体望遠鏡で何を喩えるのかと思ったら「おまえのふともも」で、それをすかさず「世界一」と断言してこられて笑ってしまう。知らずともタカハシというのはメーカーないしブランドの名前だと予想がつくが、「タカハシの天体望遠鏡」と「おまえのふともも」がどちらも「AのB」という形をとり、前者が後者の喩とされているために、「タカハシ」と「おまえ」が等置されているように感じられ、結果として「おまえのふともも」が「おまえというブランドのふともも」というニュアンスを帯びるように思われてひたすらおかしくなる。調べるとタカハシは世界的に有名な天体望遠鏡メーカーだとわかり、白くておそらくすべすべしていて円筒状であるふとももを「タカハシの天体望遠鏡」と喩えることの妥当性が読み手のなかで補強されることになるのだが、一番に伝わってくるのはやはり「おまえのふとももは世界一」というフレーズ、その破壊力だ。

 

逢えばくるうこころ逢わなければくるうこころ愛に友だちはいない

そうですよね。

 

玄関の鉢に五匹のめだかいてひろい範囲がゆるされている

めだかがいることによって玄関のあたりに生まれる雰囲気を「ゆるされている」と言い留めたところにこの上ない非凡さが表れている。ところでなぜ五匹なのか。音数の制約があり、匹の前に入れる数詞は二か五に限られる(とする)。二匹では「ひろい範囲がゆるされている」感じは出ないと判断されたのだろう。おそらく二匹だとその一対一の関係に思いが行ってしまい、周囲に開かれない。実景という可能性もないわけではないが、ちょうど五匹だったということはあまり考えられないだろう。

 

信号が果てまでぱーっと青くなりアスリートだと思い出す夜

上の句でやや幻想的な光景が直線的に広がる(果てまで見えるということはこの道路は直線であるということだと判断される)。どこまでも止まることなく進むことができる。そこを走るものとして現れるのは、車ではなく、アスリートとしての自覚を得たわたしである。「信号が果てまでぱーっと青くな」ったところを思い浮かべてみれば、確かに走りたくなるだろうと想像できる。そして最後に「夜」と置かれることで、信号の青い光が一気に美しく引き立って幻想性を増し、わたしはその夢のようなトラックを走り出すだろう。

 

どこでそんな服をみつけてくるのだろうこのひとにわたしをぶつけよう

面白い上の句に面白い下の句をそれこそぶつけるようにして作られていて、それが成功している。当たり前のように「わたし」の「このひと」への好意を読み取ることができると思うのだが、これは考えてみればちょっと不思議なことで、変わった服を着ているひとに好意を抱くことは別に自然なことではないし、「このひとにわたしをぶつけよう」はたとえば挑戦しようとか加害しようというふうにも読みうる。そうならないのは、短歌としてこのように、ゆるく切れつつゆるく接がれているからにほかならない。恋愛対象にアプローチすることを「アタックする」と言うことがあるが、「わたしをぶつけ」ると言うほうが全力感が出る。「ぶつかっていこう」といった自動詞を使った言い方もできたはずだが、「わたしをぶつけ」ると言うほうが、物を投げるときにそれに伝わる遠心力のようなものを感じられてやはりより力強く感じる。もちろんこのように比較しなくとも、「このひとにわたしをぶつけよう」というフレーズには絶対的な破壊力があるわけだが。

 

うれいなくたのしく生きよ娘たち熊銀行に鮭をあずけて

かわいい。

 

パソコンをつけるの? きっとUFOのことでもちきり 辛いだけだよ

「UFOのことでもちきり」というのを自分の生活とはかけ離れた話題でわいわいしている状態と読むことも確かにできるが、比喩でなく実際にUFOの話が盛んにされていると読んでみたい。たとえば Twitter のタイムラインを、たくさんのUFOが横断、いや縦断していく様子を思い浮かべてみたい。UFOの画像ツイートあるいは動画ツイートがバンバンリツイートされ、それについて様々な角度からのトーンのコメントが溢れる様子を。楽しそうにも思えるが、乗れない者にとっては「辛いだけ」なのかもしれない。

 

妖精の柩に今年はじめての霜が降りた、という名のケーキ

着地がすごい。

 

ばあちゃんは屑籠にごみ放るのがうまかった(ばあちゃん期Ⅱ期まで)

「ばあちゃん」はゴミ箱に物を投げ入れるのが上手だったというどうでもよくささやかで微笑ましい内容や「ばあちゃん期Ⅱ期」というフレーズの面白さから、一読して明るい印象を受けるが、ばあちゃん期Ⅲ期からは上手く投げられなくなってしまったのだということに気付くと俄かに切なさに襲われることになる。そうした陰影を含んで、「ばあちゃんは屑籠にごみ放るのがうまかった」ということは、より深みのある思い出として立ち現れてくる。「屑籠にごみ放る」という言い回しは、「ばあちゃん」の言い方を継いだものに違いない。

 

あいしてよ桜 ギターを弾くときにちょっぴり口のとがる男を

「あいしてよ桜」とは歌謡曲のような歌いだしだなと思うと、ギターが出てくる。桜に誰を「あいして」と言うのか。ギターを弾く男だ。「ギターを弾くときにちょっぴり口のとがる男」、いる。絶妙なあるある感というかいるいる感だが、その共感性だけで終わっていないのがこの歌の良いところだ。あるあるな、いるいるな男を、桜よ、「あいして」くれ。この呼びかけをしているのは男自身なのかもしれない。「あいして」とひらがなにしているのは、男のキザさを表現するためなのかもしれない。雪舟は(集中では)作中主体が自身と重なるような別の歌では「愛する」と漢字表記にしている(p.7、66、69の歌を参照)。

 

『たんぽるぽる』は12章から成っているが、「3. 魔物のように幸せに」のエピグラフを引用して結びに代える。

あたしを抱きしめて「おまえも自転車買え。」っていったの、覚えてますか?

「買う。」とあたしはいって、いきなり空は十倍も高く、深くなったのでびっくりしました。

たんぽるぽる (かばんBOOKS)

たんぽるぽる (かばんBOOKS)

  • 作者:雪舟えま
  • 発売日: 2011/04/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)