戸塚伸也作品の可能性 ~絵画と題名の関係に着目して~

 戸塚伸也作品においては、しばしば、題名と絵とはストレートに対応していない。より正確に言えば、題名の言葉がふつう喚起する概念・イメージと、名付けられている絵に描かれているものとが、何らかのかたちでずれている場合が多い。(以下、Webサイトに掲載されている作品画像と文章を参照しながら話を進める。https://www.shinyatotsuka.com/

 たとえば「Drawing Color」カテゴリの『肉体』や、「Painting 2007」カテゴリの『からあげくん』。私の知っている肉体でもからあげくんでもない、と思う。みんなそう思うだろう。画家はふつうとは違う視覚を呈示する(そのものずばり『視覚』という作品もあり(「Painting 2015」)、見たことのないものを見せてくれる)。ここまではなんというか当たり前の話。

 挙げた二作品の題名はどちらも名詞ひとつで構成されていて、それと対応していると思われるイメージがそれぞれの絵の中心にある。これが肉体で、これとこれがからあげくん。混乱はなく、ここで焦点は定まっている。

 しかしたとえば「Drawing Color」カテゴリの『蟻』は、一見して蟻が見つからない。奥に黒く小さく描かれた、人のような形をしたこれがそれなのだろうか。この絵の中心になっているように見えるのは同様に人の形をした手前の茶色のこれなので、ピントがずれている。ここで擦り合わせの現象が起こるように思われる。このふたつの焦点と相似性によって、人間が蟻のように見えてくる、あるいは、人間が蟻だと言われているように思われてくるのである。そうすると、奥の人工的な構造物は巣のようにも思われてくる。そして気になるのは、手前の茶人間の姿勢の不自然さである。歩行の途中に見えるのに、腕が垂直に下ろされている。いや、右腕は見えていない。奥のやつのように、頭の横まで手を挙げているのかもしれない。黒いのと茶色いのは同じ姿勢をとっているのではないか、あるいは、茶色いのは黒いのを左側から描いたものなのではないか。その場合、黒いのは「巣」に向かって歩いていることになる。これは「会社」のようにも見える。

 なお、このような読みは作者によって歓迎されているようだ。この画家による「Statement」は読みがいがある。

 

   単純にふたつのものが重なっているだけで、

   ふたつの間には物語が生まれます。

 

   例えばトイレットペーパーの上にりんごが

   乗ると、個々に見ることとは違う予感が

   得られます。

 

   ランダムにおかれたものたちでも、

   人が見た瞬間そこにストーリーを

   作り上げています。

 

   一定時間、見たり聞いたり感じた情報

   の後、そういった時間が存在することに

   意味があったかどうかを考えることが

   よくありますが、

   僕はその情報を自分の思想、美意識に従って

   並べ替えようとしているようです。

 

   対象物を自分だけが違う認識をする文字の

   ように捉えて、意味のある物語を伝えること

   が、僕のやるべきことだと思っています。

 

 ここでは相似性を手がかりに、題名を媒介にしてイメージが重ね合わされ、すでに述べたような解釈を誘発しているわけである(分析には手間がかかったが前述の内容は実際にはほとんど直感されるものである)。この文章にはまた立ち返りたい。

 もうひとつ名詞だけの題名の作品を見てみよう。「Painting 2007」の『ビタミン』は面食らう作品だ。いったいどれが、どこがビタミンなのだろうか。焦点が定まらず、全体がそれだという感じもしない。こうした場合、絵をより丹念に見ることになると思うのだが、そうしてじっくり見ているとたとえば以下のような考えが生まれてくる。このキャラクター、フォルムが「ドラえもん」に似ていなくもなく、色もそれっぽく見えなくもない。そうするとこれは「四次元ポケット」だろうか。そこから何か黄色いものがはみ出ているが、これは何だかさっぱりわからない。その「ポケット」あたりと頭頂部が2本の紐状のもので結ばれている。「髪の毛」だろうか、「管」だろうか。無尽蔵に出てくるイメージのある「四次元ポケット」から「ビタミン」を吸い上げている……? この頭部の形と色の分かれ方は「気球」のようでもある。「目から鱗が落ち」ているようにも見え……。画家がどういった意図で名付けたのかはわからないが、『ビタミン』はこのように探査を促し鑑賞者の読みを引き出す作品になっている。

 次に「AとB」タイプの題名が付けられた作品を見ていきたい。名詞ふたつが助詞を挟んで並列しているもので、その関係性が問題になってくる。

 「Drawing Color」の『うさぎとフライパン』。うさぎとフライパンという取り合わせは、うさぎを食べる文化がない私たち日本人にとってはかなり意外性のあるものだ。この絵には左方に頭に巨大なスプーンのようなものがくっついた半袖短パンの少年、右方にうさぎが配されている。題名から、このスプーンのようなものがフライパンなのだと推察されるわけだが、この少年が一気に置き去りにされる感じがあって笑ってしまう。一部の焦点化と同時に他の周縁化が起こるわけである。彼は近付こうとしたうさぎにも逃げられている。ただ彼にはまだ大きな特徴があり、胸に時計がある。三角の突起が服をはみ出していることから、これは服の柄ではなく服に取り付けられたものだとわかる。針は七時五分を指している。背景が白く、影もできていることからおそらく朝の七時五分だと思われる。少年が上半身に着ている服は二枚あり、半袖の上にベストを着ることはあまり考えられないので、外側の緑の一枚はビブスではないかと思われる。こうして次のようなストーリーが思い浮かぶ。中学生の秀斗くんは今日もサッカー部の朝練。時間を気にして食べそびれた朝食のことが頭にある。目玉焼き食べたかったな、などと思いながらふと見ると、そこにうさぎがいる。きっと学校の敷地の隅にある檻から逃げ出してきたのだろう。捕まえなければ。しかしうさぎはどこか嫌そうな顔をして物陰のほうへ走って行ってしまうのであった。

 続いて「Painting 2007」の『きつねとリス』を見てみよう。手前がランドルト環のように欠けた灰色もしくは銀色のリングがあり、その内側にふたりあるいは二匹が向かい合って体育座りしている(このリングの領域性はその上方にも輪が描かれることで補強されており、またその輪に垂直に接するように満月のようなものが描かれ、形態のリズムを作っている)。右がきつねで左がリスだと思われるのだが、リスが異形である。顔の造作がよくわからず、頭の上に何かカオティックな物体が煮えている。漫画の吹き出しのようなものが描かれていることから、きつねが何か話しかけていることがわかるが、吹き出しの中身は空白でその内容はわからない。きつねがその吹き出しを指差しているように見えることから、その空白が強調されているように思われる(あるいはひょっとするとこれは視力検査のときの手振りだろうか)。果たして二者のコミュニケーションは成立しているのだろうか。考えすぎかもしれないが、ひらがなとカタカナになっている題名は、非対称的な関係を表しているのかもしれない。

 同じく「Painting 2007」の『ねことねずみ』と題された二作品も見ておきたい。ねことねずみというと、食うものと食われるものの組み合わせ、捕食関係になっているわけだが、まず見る一枚目の絵画においてはこの関係がより先鋭に描かれているようである。左の黄色い顔をしたこれがねこだろう。そうすると、例によって確かなことは言えないが、右のこれ――何と言ったらいいのだろうか――がねずみということになる。「ねこ」のからだはタコのようになっていて(ところどころ痛々しく傷ついている)、「ねずみ」と接続されているようである。『ビタミン』ではないが、ねこがねずみから栄養を得ているということをグロテスクなまでに表現した作品であると考えられる。「ねこ」と「ねずみ」の形や目(?)の色が似せて描かれることで共喰いのようなどぎつさが出ている。人間に引き付けて捉えると、「食い物にする」ということを生々しく描いているとも取れる。これに対して、二枚目の絵画からは、全く異なった関係が読み取れる。二足で直立したねこが両腕を左右に広げて止まれの合図をしているように見える。その右にいて、庇われているような格好になっているのがねずみだろう。左にいるのは何だかわからないが、それに気付いたねこが前進を制していると考えられる。舞台はRPGのダンジョンだろうか。何にせよ、ここではねことねずみは仲間関係にあるようである。このようにして、この同名異作は、同じ組み合わせでも異なる関係性や物語を描きうるということを端的に示している(これは同じ役者たちが違和感なく異なる映画に出ることと似ている)。

 「AとB」タイプの作品をもうひとつ。「Drawing 2014」の『歩道橋とコーヒー – コーヒーから立ち上る湯気と歩道橋から立ち上る二酸化炭素。これらは煙だ。』は、歩道橋とコーヒーを結び付ける強引さが面白い。歩道橋から二酸化炭素が立ち上るというのはいったいどういうことなのだろうと思うが、コーヒーを背にした女性と歩道橋を背にした男性が手を取り合い、おたがいの頭に付いた煙突から出る煙が混じり合っているイメージによって、歩道橋とコーヒーが奇跡的な一致を見ている。男女の出会いを運命だと言い募る口説きのようでもある。言葉の魔法と絵の魔法、それぞれの力を感じさせる作品だ。

 この流れで『ポッキーが立つ – ポッキーから骨を思い出し、そして人類が初めて立った日のことを思いました。』(「Drawing 2014」)も見てみよう。わけもわからず爆笑してしまった作品なのだが、とにかくこの犬のような猫のような動物がポッキーなのだろう(なぜ半角なのだろう)。最初はさっぱりわからなかったが、「ポッキーから骨を思い出」すルートはふたつあるようである。ポッキーという言葉からあのグリコの棒状のお菓子が思い浮かび、そこから骨が連想されるというのがひとつ。このポッキーというキャラが犬のように見えることから、それがしゃぶるものとして骨が思い起こされるというのがもうひとつ。書いてみて思ったが非常にどうでもいい分析だった。とにかくポッキーは立った。見逃せないのが(見逃しようがないが)、「ポッキー」の文字がポッキーの傍らに配されている点である。このある種の過剰さが笑いを誘う。そしてポッキーと同じような動物が背中合わせになっているのも気になる。「ポッキー」の文字も二重になっている。よくわからないが右のピンクの魚はヒラメで、左の黄色の魚はカレイなのではないかと思った。これに関しては何も聞かないでほしい。

 文字が描かれている絵はほかにもある、というか、文字で構成されている絵がある。「Painting 2012」の『えミィでぃあトリィ Immediately』はそのうちのひとつだが、文字が描かれているとはおそらく絵だけ見ても気付かないだろう。題名を知った後でも、どこがどの文字なのかの対応を確認するのは難しい。ここで言葉は単なる音の連なりになり意味することをやめ、ばらばらの文字になり、着色され、歪形され、新しく結び合わされている。この解体と凝縮の手つきはシュルレアリスム的であるとも言える。

 先日行われた永瀬恭一氏との対談「私的占領、絵画の論理」第四回「環境と意識と絵画」(イベント概要:http://www.arttrace.org/event/shitekisenryou04.html、永瀬氏によるレポート:https://note.com/nagasek/n/n6114c5a49f00)で画家の話したところによれば、こうした文字の絵は聞き取りの失敗をきっかけとして制作されたという。意味以前の印象を絵画に落とし込んだのだと。また、日常で覚えた違和感を絵画的処理と配置によって解決しているというようなことも伺った。言語的・社会的つまずきから出発するこの方法は、個人的な問題の解決に留まらず広く秩序を作り変えるような可能性を秘めているように思われ興味深い。「Statement」を振り返れば、「単純にふたつのものが重なっているだけで、/ふたつの間には物語が生まれます。//例えばトイレットペーパーの上にりんごが/乗ると、個々に見ることとは違う予感が/得られます。」というように、画家の言う物語とは、すでに語られたものではなく、可能性として「予感」されるもの、可能性としての物語だった。だから「意味のある物語」とは、通貨のようにやり取りされる既存の意味とは違った可能性のことを言っているようだ(2020年11月現在、Twitterのプロフィール欄にある「日々の情報を、図、文、印刷、などの方法で意味から遠ざかるために作っています」の「意味」はこの通貨的な意味のことを指しているだろう)。物語は戸塚作品にすでに書き込まれているわけではなく、見るひとそれぞれが書き‐読み込んでいくものなのである。うまく接続するかわからないが、引用しておこう。「おそらく絵とは、同時にあらゆる仮説や物語の可能性であるということができる。しかしそれは絵それ自体が物語を免れているからである」(ジル・ドゥルーズ著・宇野邦一訳『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』、河出書房新社、2016年、p.97)。

 まとめておこう。私たちは、『肉体』と『からあげくん』にイメージの更新あるいは創出を、『蟻』に題名をうまく利用したイメージの重ね合わせの仕掛けを見た。題名には焦点を作る作用があるが、『ビタミン』においてはそれがただちに機能せず、その効果として鑑賞者を探査に誘うことを確認し、『うさぎとフライパン』には焦点化と周縁化が同時に起こることを感知した。『きつねとリス』からは非対称的な関係を見て取り、『ねことねずみ』二作品には関係の激化と異化、および様々な物語への開かれとでも言うべきものを見た。『歩道橋とコーヒー – コーヒーから立ち上る湯気と歩道橋から立ち上る二酸化炭素。これらは煙だ。』において言葉の力と絵の力によって遠い事物がつながれる様を目の当たりにし、『ポッキーが立つ – ポッキーから骨を思い出し、そして人類が初めて立った日のことを思いました。』で笑い、『えミィでぃあトリィ Immediately』に言葉の解体と絵画のかたちでの凝縮を見た。

 この画家はいわゆる固定観念を峻拒している。ねこはこうで、ねずみはこうで、ねことねずみはこう、というような決めつけを入念に外し、ずらすということをしているようである。題名の持つ焦点化・中心化作用や絵画を統御・支配しようとする力にも敏感である。要は言葉の力をよくわかっており、それに抵抗するような作品を作っている。対談でも言及されていたが、そうした抵抗の姿勢は色彩にも表れており、戸塚作品では多くの場合、対象物は固有色とずれた色を持たされている(色彩は戸塚作品の魅力の大きな部分を担っていると感じる。論旨と書き手としての力量不足のため取り上げることができなかったが、『夜の川』、『水道』、『電気街』、『花レ類』、『まわりしかない』といった作品に強く惹かれる。機会があれば論じてみたい)。これからも「違う認識」を存分に表現してほしいと思う。絵画と言葉のバチバチの緊張関係を、もっと見たい。

 

 

参考サイト

・Shinya Totsuka Website https://www.shinyatotsuka.com/

・一人組立(永瀬恭一)https://note.com/nagasek

・連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」 第四回「環境と意識と絵画」─戸塚伸也─ レポート https://note.com/nagasek/n/n6114c5a49f00

鉄骨

かたちあるものすべて滅びるので

テトリス テトリス

鉄骨が落ちてきて

君が消えた日は

祝日だった

 

それでも地球は運動をやめなかった

今日は太陽が近いね

肌が焼けるかすかな匂いと

芳醇な茸の香りと

街は生気に満ちている けど

 

閉店した美容院の鏡に映る君の影

 

心を落ち着かせるために

週刊誌の投書欄を見る

 

マクドナルドにパソコンを持ち込んで

 詩を書いていると

 妙な高揚感があるんですが、

 これはいったい何なんでしょうか」(二十七歳、男性)

 

「持ち込み可のテストに

 友人を持ち込んではいけないなんて

 あんまりだと思いませんか」(二十一歳、女性)

 

知らんがな

 

気を取り直して

カラオケ フリータイムで

国歌をうたって

 

吐く

 

やってられない

今日はもう退散しよう

 

夕暮れの帰路

国道沿いのコンビニで

また君の姿を見てしまう

エビマヨのおにぎりに手を伸ばして

微笑んでいるように見えた

 

ドカドカ動悸に苛まれつつ

雑誌コーナーへ

 

「あの美容院に

 彼女はまだ通っているのではないでしょうか」(二十九歳、男性)

 

「あなたが待ち合わせ場所を別のところに指定していたなら

 彼女は死なずに済んだのではないでしょうか」(三十五歳、女性)

 

頭がぐるぐるして

コンビニを飛び出す

 

看板が私を責める

どこかから歌が聞こえる

おまえのせいだ

おまえのせいだ

 

ここはどこだ

どこへ行っても

看板がある

歌が聞こえる

逃げ場はない

 

ここは事故現場だ

ここはどこであろうと事故現場だ

どこにいようと

鉄骨は落ちてくる

どうやっても逃げられない

ゲームオーバーだ

 

ぶるぶる震えながら

沈む血の夕陽を

朦朧と飲んでいる

僕の傍らに

君が

静かに寄り添ってくれる

肉、ひかりのなかへ(短歌50首)

レントゲン写真はいたく清冽でこんな言葉が欲しいと思う

 

白い朝とろりと光るぬるま湯で儀式のように薬剤を飲む

 

新しいペンを下さい新しい空を下さいさらさらのやつ

 

太陽光電池で動く腕時計高くないけど世界に見せる

 

すき焼きを毎日やろうなんて言う君が好きだが毎日はない

 

すき焼きはいつも美味しいからすごい ひかりのなかにいるような感じ

 

ゴミ袋を破らないよう割り箸を折るときに手が汚れるのやだ

 

寒すぎていろんなことが雑になる挨拶とか体の洗い方とか

 

世を捨てて小鳥を飼って暮らしたい 通販は便利だからやめない

 

滑り台逆走マンになることで秩序を乱すことを覚えた

 

特製の紙飛行機はすいーっとクリームソーダみたいな空を

 

カチューシャをあげたい女の子がいる 絶対似合うはず 死にたい

 

税金の塊としてゆるキャラを捉えたときに大人になった

 

憂国も大概にしてやることをやろう 鳥人間選手権とか

 

のど飴を転がし転がし舐めてよう夭折しそこねた僕たちは

 

生活を安定させるルーティーンとしてエロ動画を見てる節

 

ボウリングといえばセブンティーンアイス・チョコミント 昔っから決まってる

 

わたくしは一個のカメラひたひたの空はいつでも画面あふれる

 

踊る蜜 滴る桜 アクリルの絵の具飛び散る生エビの春

 

花見とはかくあるべしという確固たる信念を持った男だ

 

チョコバナナ三百円は高いので値切ろうとする君がかわいい

 

花見場の屋台のおでん千円!!! 打ちのめされて帰る僕たち

 

おはようのキスが欲しくてたまらない目をしています気付きませんか

 

春に休憩は要らない 煮沸せよ めくるめく色彩の乱交

 

煌煌と花壇は燃えて墓になりみんながそこに入ってしまう

 

戦えば負ける星空ゆらゆらとあの世のように歩いて帰る

 

雨音と和解してから眠る君 朝日はきっと優しいだろう

 

徹夜明けほろりと思い出すように感じる水の味 ほの甘い

 

また今日も知らない鳥が鳴いているカタカナで言うならばゲキョキョキョ

 

串カツがかなり美味くて若干の興奮がありやがてしずまる

 

引き算で生活するのやめません? ロケット花火バシュっと放つ

 

不都合があるとばたばた動き出すわたしのなかのなまのペンギン

 

少壮な警察官を前にして手持ち花火は無力であった

 

つやつやのライムを搾る夏の朝すこやかに鳴るガラスのチャイム

 

二組の少年少女笑う笑う最後に笑うのはわたしだが

 

本日もさけるチーズをさきまくりポンポンみたいにして食べましょう

 

耳をヤるライブハウスのスピーカー今日も明日も耳をヤるヤる

 

塩で食うほどのステーキ美味すぎて「すごい」以外の語彙を失う

 

「木刀の快感教え込まれたらもうラケットは振れなくなれよ」

 

愛猫に手を引っ掻かれオロナインひりり金魚のように悲しい

 

「見ないで これはわたしだけのテレビ 雷の映像を映すの」

 

とんかつの胡麻をジリジリと擂るときゴリラみたいに生き生きしてる

 

霊長類って字面がかっこよすぎない? 驕りが出てる そういうとこだよ

 

じいちゃんのキャベツだからか投げ捨てていつものように楽しく笑う

 

お互いの眼鏡を取ってキスをする 広告の品ゆったりと裂く

 

蕎麦だけじゃ淋しいなあと言ってしまい叱られるわたくし二十七

 

猛暑日に湿布のように伸びている幾千枚の人間にんげん

 

卓上の三ツ矢サイダー汗かいて半身浴のトンボ鉛筆

 

好きだったアニメのシール剥げかけて彼もそろそろ父親になる

 

よく跳ねる家焼肉の油からビニール手袋で手を守る

 

 

※以上50首は第2回笹井宏之賞応募原稿です(名義:水城鉄茶)。お読みくださりありがとうございました。

おすすめ本10冊

中原中也中原中也詩集』(岩波文庫

 

一つのメルヘン

 

秋の夜は、はるかの彼方に、

小石ばかりの、河原があつて、

それに陽は、さらさらと

さらさらと射してゐるのでありました。

 

陽といつても、まるで珪石か何かのやうで、

非常な個体の粉末のやうで、

さればこそ、さらさらと

かすかな音を立ててもゐるのでした。

 

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、

淡い、それでゐてくつきりとした

影を落としてゐるのでした。

 

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

今迄流れてもゐなかった川床に、水は

さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

 

 

 

石川啄木『啄木歌集』(岩波文庫

 

『一握の砂』「我を愛する歌」より

 

東海の小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて

蟹とたはむる

 

やはらかに積れる雪に

熱てる頬(ほ)を埋むるごとき

恋してみたし

 

たんたらたらたんたらたらと

雨滴(あまだれ)が

痛むあたまにひびくかなしさ

 

誰が見ても

われをなつかしくなるごとき

長き手紙を書きたき夕(ゆふべ)

 

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

花を買ひ来て

妻としたしむ

 

 

 

・渡辺玄英『渡辺玄英詩集』(現代詩文庫)

 

『海の上のコンビニ』

クジャクな夜」より

 

いくところないから

コンビニに行ってきました

ほしいものないから

孔雀をほおばってみました

つめたい夜空でした

(きれた電池はどうしようか? きれた電池は?

 

 

「ハロー ドリー!」より

 

ぼくが見るのは

屈葬の夢だ

手足をまげて赤土のなかで眠っている

ひたいのうえに小鳥の卵がのこされていて

青空がつまっている

というのは本当だろうか

 

こんな青空

動脈の赤

静脈の青

街路樹のくろいひび割れ

街を歩くと

舗道のうえに生卵がつぶれていて

見あげると

電線に幼児がぷらぷらぶらさがっている

 

 

 

川田絢音川田絢音詩集』(現代詩文庫)

 

『空の時間』より

 

 1

血いつも血

青が青いように

渇きで熟れるオレンジのひっきりなしの爆発

 

 3

無垢な窓を

内へ

内へと

開け放って

悲鳴ははれやかに疾走しなければならない

 

62

すべてが翔ぶ

永遠に見られない手鏡の中の血のように明るい青空へ

 

 

石原吉郎石原吉郎詩集』(現代詩文庫)

 

『いちまいの上衣のうた』より

 

花であること

 

花であることでしか

拮抗できない外部というものが

なければならぬ

花へおしかぶさる重みを

花のかたちのままおしかえす

そのとき花であることは

もはや ひとつの宣言である

ひとつの花でしか

ありえぬ日々をこえて

花でしかついにありえぬために

花の周辺は的確に目覚め

花の輪廓は

鋼鉄のようでなければならぬ

 

※『続・石原吉郎詩集』もどうぞ。

 

 

 

・永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(BookPark

 

あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる

 

くちばしを開けてチョコボールを食べる 机をすべってゆく日のひかり

 

自販機のボタン押すホットミルクティーが落ちるまで目をつむってすごす

 

ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいったしコンクリを撮る

 

カラオケでわたしはしゃべらなくなってつやつやと照るホットコーヒー

 

 

 

舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』(講談社文庫)

 

僕は智依子に振り払われた手でもう一度智依子の手を取る。もし智依子の言うことが本当で、万が一、万が一、智依子の身体の一部が失われてしまい、そのことで智依子が全く新しい人間に生まれ変わってしまったとしても、僕のことを、じゃあもう一回最初っから、ゼロから、好きになってほしいと思う。僕は智依子にそうお願いする。それから僕は、僕は智依子のことがずっと好きだから、智依子をもう一度捕まえて、智依子にもう一回僕のことを好きにならせてみせる、と言う。すると智依子は言う。でも巧也だって、もう前の私とは違う私のこと、ちゃんと好きなままでいられる?ホント、私が全く別の女の子になったとしても?僕はそんな質問には答えられず、黙ったままで智依子のあのASMAの浮かんで消えた左腕を取り、唇をつける。智依子の肌だ。細かい粉を吹いているようなすへすへの肌。/ごめんね、巧也、私はただ、私は私のままでいて、ずっと巧也のことを好きなままでいたいと思ってるってこと、言いたいだけなんだけど……。

 

 

 

西尾維新きみとぼくの壊れた世界』(講談社ノベルス

 

「校舎から飛び降りてもひょっとしたら生き残れるかもしれないけど、宿題なんかやったらわたし、死んじゃうよ。」

「きみの頭は髪の毛を育てるための苗床か? 違うというのなら少しは論理的に考えるということをしたまえよ。」

「僕だけは、きみの嘘を見抜いてあげる。」

 

 

 

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫

 

知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか、(…)知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだ(…)。

 

※四部作の続き『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら快傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』も素晴らしいのでぜひどうぞ。

 

 

 

上野修スピノザの世界』(講談社現代新書

 

ニーチェ好みの「善悪の彼岸」である。しかしニーチェは「神の死」を引き受けようとして孤独だったのに対し、スピノザは彼の神とともにいた。だれの手も煩わせずに、いわば勝手に救われていたのである。

メルロ=ポンティにおける呼吸の哲学――『眼と精神』を中心に

 本稿では、哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908~1961)の身体‐絵画論をおもに「呼吸」に着目して読み解く。彼は身体論と絵画論をオーバーラップさせた特異な著書『眼と精神』(L’Œil et l’esprit, 1961)で、次のように述べている。

 

インスピレーション〔霊感=吸気〕と呼ばれているものは、文字通りに受け取られるべきだろう。まさに《存在》のインスピレーションとイクスピレーション〔呼気〕、《存在》のうちでのレスピレーションというものがあるのであって、ここでは能動と受動はほとんど見分け難く、もはや誰が見、誰が見られているのか、誰が描き、誰が描かれているのか分からないほどである。[1]

 

 何を言っているのかはさておき、まず注目したいのは、呼吸すなわち息を吸うことと吐くことという身体における出来事と、着想と実行という創造活動とが、重ね合わせて論じられているということである。画家ないし芸術家は、息を吸うように着想し、息を吐くようにそれを実行する。メルロ=ポンティはこのように、身体と絵画を別々ではなく二重にして論じている。その際に彼が用いているのが、「呼吸」という比喩であり、「熱気」「生気」「湿気」といった気体の比喩である(ただしこれらの比喩は「文字通り」にとられる必要がある)。本稿ではこうした比喩に着目して身体‐絵画論の核心に迫りたい。

 

 さて、では絵画の創造活動がそれであるところの存在の呼吸とは何か。これを理解するために、そもそも呼吸とは何かを考えてみよう。

 呼吸、それは息を吸うことと息を吐くことであり、そうすることによって細胞活動に必要な酸素を取り入れ、不要な二酸化炭素を吐き出すことである(細胞活動自体も呼吸と呼ばれる)。それは「更新」の働きである(後述)。

 それはいつの間にか、つねにすでに始まっている。

 それはふだん意識されることがない。

 それはどんなときに意識されるのか。人前で話すことになって緊張したとき。スポーツの試合で体がスムーズに動かないとき。つまり、心身が「気負っている」とき、あるいは気負った心身が障害に直面するとき。そして、何らかの「レッスン」をするとき、そうして神経を研ぎ澄ませるとき。

 それは意識されるとどうなるのか。余計に乱れる場合もあれば、整う場合もある。呼吸を意識することが、生を実感することにつながることもある。

 

 存在の呼吸とは何か。存在の呼吸とは、存在を呼吸することであり、同時に、存在が呼吸することでもあるだろう。先に引用した文の直前に挙げられている、画家アンドレ・マルシャンの以下の言葉がヒントになる。

 

森のなかで私は幾度となく、森を見ているのは私ではないという感覚を抱きました。木々こそが私を眺め、私に語りかけてくるのだという感覚を抱いたことが幾日もありました……。私はと言えば、そこにいて、耳を傾けていました……。画家は宇宙に貫かれるべきであり、宇宙を貫こうと願うべきではありません……。私は内的に沈められ埋められるのを待ち受けているのです。おそらく私は浮かび上がるために描いているのです。[2]

 

 画家は宇宙=世界に没入し、貫かれ(吸気)、それを自らのスタイルに従って画布に定着し、世界から浮上する(呼気)。おそらくこれは、ヴァレリーの言葉(とそれを敷衍したメルロ=ポンティの言葉)にも対応している。画家は「自分の身体を運」び、「物に近づきそれを掴み取」る(吸気)だけでなく、「あとじさりし」、遠ざかることもする(呼気)のである(ヴァレリー「邪念その他」)。「画家が世界を絵画に変えるのは、世界に自らの身体を貸し与えることによってである」[3](吸気)とともに、世界から身体を返し戻してもらうことによってである(呼気)。

 画家にとっての吸気とは、メルロ=ポンティのもうひとつの身体‐絵画論「セザンヌの疑惑」(Le doute de Cézanne, 1948)の言葉を使えば、「モチーフをつかむ」ことである。セザンヌは、絵画を作りあげていくただひとつの動機となる「全体として、絶対的な充溢の状態においてとらえられた風景」を「モチーフ」と呼んでいた。[4] モチーフを「つかむ」には、散乱するいくつもの眺めを、人間的な観念や科学に頼らずに(「宇宙を貫こうと」せずに)、とりあつめ接合する必要があった。そのために彼は「観念がそこから抽出され、われわれにそれらを分ちえぬものとして示す、根源的な経験」に立ち戻らなければならなかった。主著『知覚の現象学』(Phénoménologie de la perception, 1945)も引いておこう。「私が光景に身を委ねる運動は、根源的なもの、ほかの作用に還元できないものと、認められなくてはならない。意味の定義や知的な仕上げに先立つ一種の盲目的な認知において、私は光景に加わるのである。」[5] 画家は世界に没入し(光景に身を委ね・加わり)、無垢のままに、評価なしに、物そのものに視線を注ぎ、野生の意味を汲み取るのである。[6]

 画家にとっての呼気とは、作品制作による世界への応答である。画家は眼で聴き、手で応答するのである。芸術と(芸術の)歴史について論じている「間接的言語」(1969, Le langage indirect)において、メルロ=ポンティはこう言っている。

 

超えながら継承し、破壊しながら保存し、変形しながら解釈する、つまり新しい意味をそれを呼び求め予料していたものに注ぎこむという、その三重の捉え直しは、単におとぎ話の意味での変身、奇跡や魔法、暴力や侵略、絶対的孤独における絶対的創造なのではなく、それはまた、世界や過去、先行の諸作品が彼に求めていたものへの応答、つまり成就と友情でもあるのである。[7]

 

 創造活動とはいかに孤独なものに見えようとも世界への応答なのである、と彼は言う。

 

もしわれわれが画家のうちに身を置いてみるならば、しかもそれを生きるべく彼に与えられた身体的宿命や個人的冒険・歴史的事件などが、彼の世界への根本的な関わり方を示す何本かの力線を中軸として、絵を描くという行為に組織される瞬間の画家の立場に身を置いてみるならば、われわれは、彼の作品が、そうした所与の結果ではないにしても、つねにそれらに対する応答なのであって、(…)絵画に生きるということも、依然としてこの世界を呼吸することなのであって、われわれは、画家も人間も、文化の土壌の上で、それが自然によって与えられた場合と同じように「自然的に」生きているのだということを理解しなければならないのである。/われわれは、画家が絵画の歴史と取り結ぶ関係そのものをさえ、「自然的なもの」の様態で考えるべきなのだ。[8]

 

 応答の手前に「反芻」のモーメント、間、溜めがある。画家の作品は、彼に与えられた世界状況の単なる結果ではなく、それを反芻し変形して吐き出したものである。「実生活に長けていようが疎かろうが、世界を反芻することにかけては並ぶ者なき至高の存在として、画家はそこにいる」。[9] 与えられた状況、所与とは、「空気」や「環境」とも言い換えることができる。人はいくらかの空気を吸って、体系的な変形を加えて、それとはいくらか異なるものを吐き出す。「世界の諸所与を或る「首尾一貫した変形」に従わせたとき、意味が存在することになる」(「間接的言語」)。[10] その意味をかたちにすること、成就することが、応答するということである。応答以前には切迫する意味の熱気がある。「セザンヌの疑惑」にはこう書いてある。「「着想」は、「実行」に先立つことはできない。表現以前にあるのは、漠とした熱気だけなのであって、作りあげられ理解された作品だけが、われわれがそこに、無というよりもむしろ何ものかを見出すべきであることを、証しするようになるだろう」。[11] なお、呼気が吸気に先行するというこのロジックは、応答が呼びかけに先行するという、哲学者ジャック・デリダが『アデュー』(Adieu―à Emmanuel Lévinas, 1997)で語っている論理に等しい。

 

応答することから始める必要があるのだ。ということは、始めに、第一の語は存在しない、ということだ。呼びかけは応答から出発して初めて呼びかけとなる。応答は呼びかけに先んじ、呼びかけに先回りして〔呼びかけを迎えに〕到来する。呼びかけが応答以前に第一のものであるとしても、それは、呼びかけを到来させる応答を予期する〔応答においてみずからを待つ〕ためにすぎない。[12]

 

 メルロ=ポンティは言う。性質、光、色、奥行きが「そこ」にあるのは、それらを身体が迎え入れ、それらが身体のうちに「こだま」を呼び覚ますからである。[13] (「そこ」という言葉が強調されているのは、それが単なる座標空間内のある領域ではなくて、私たちの身体と関係するかぎりでの場であることを言いたいのだろう。)世界を(真に迫って)知覚することからして、身体を通してシステマティックな変形を加えることであり、呼びかけに応答することであって、存在を呼吸することなのだ。そしてそうした「こだま」、「肉的応答」のひとつのかたちとして絵画があるのであり、絵画創造ひいては芸術創造一般はいわば存在の深呼吸なのだ。反芻を経た見えるものたる絵画は、「自乗された見えるもの、第一の見えるものの肉的本質ないし図像」である。[14] 制作された絵画あるいは名詞形での呼気は空気ないし雰囲気となり(環境・歴史となり)、いずれ、他者――自己も含むだろう――にまた霊感を与える。

 

画家は、何か或るイメージを作りあげることしかできなかった。このイメージが、他の人々に対して生気を帯びるようになるのを待たなければならないのだ。そのとき、芸術作品は、あのばらばらの生をひとつに結び合わせるようになるだろう。そのとき、芸術作品は、もはや、とりついて離れぬ夢やいつまでも続く錯乱として、それらの生のうちのひとつのなかにだけ存在するということはなくなるだろうし、絵具を塗った一枚のキャンバスとして、空間のなかにだけ存在するということもなくなるだろう。それは、或る永久の獲得物として、いくつかの精神のなかに、おそらくは可能なるすべての精神のなかに、分割されることなく住まい続けるようになるだろう。[15]

 

絵画は見えないものを見えるようにする。世俗的な意味での見えるものは己れの前提――両立不可能な複数の見えの戯れ、全体的可視性――を忘れている。絵画は全体的可視性を再創造し、そうすることで見えるもののうちに捕われていた亡霊を解き放つ。絵画によって、見えないものが見えるようになる。絵画は「身体のなかで物が熱気を帯びて生まれてくるその秘かな生成」[16]を目指しているのである。

 「肉的応答」という言葉が出たが、この「肉」とは、「見えるもの、動きうるものとして、私の身体は物の仲間であり、物の一つであり、世界という織物のうちに編み込まれている(…)他方、私の身体は見、動く〔自分を動かす〕のだから、自分の周りにぐるりと物をつなぎとめており、(…)世界は身体と同じ生地で仕立てられている」[17]と彼が言うときの、この「生地」に等しい。なべて私たちは呼びかけと応答のように避けがたく絡み合っている。のっぴきならないかたちで世界に織り込まれている(「世界内存在être au monde」)。[18] 沈黙のうちにつながれている。身体をもつとはそうした「つながれ」に浸り感じ合うことなのであって、そこに、生きることの根源的な受動性がある。そして私たちを常時つないでいるのは空気ないし大気である。[19] 空気による、微粒子によるつながり。身体の気づき――身体に気づくこと、身体が気づくこと――は、こうした根源的なつながれに気づくことなのであって、だから呼吸を意識することが生を実感することに通じる。私たちに必要なのは空気を読むことではなく空気を感じることである(空気の読み方は空気に書いてありプログラムのようにインストールされてしまうのだが)。[20] 存在の呼吸について、「ここでは能動と受動はほとんど見分け難く、もはや誰が見、誰が見られているのか、誰が描き、誰が描かれているのか分からないほどである」という冒頭の引用は、上に述べたような絡み合いのことを言っている。存在を呼吸しているのか存在が呼吸しているのか、もはやわからないのである。

 存在の呼吸とは存在の更新である。(存在を呼吸するとは存在を更新することであり、存在が呼吸するとは存在が更新することである。)空気があって、それを吸い、一定の間(反芻の時間ないし肺のプロセス)があって、息を吐き、それがまた空気になって、また空気を吸う、「空気→吸気→間→呼気→空気→吸気→……」という流れは、閉じた円環を描くかに見えて、螺旋状に昇っていく軌線を描く。日々息をするように知覚するたびに、世界の見え方は少しずつではあるが全体的に新しくなる。出来事としての知覚、これまでのパースペクティヴから新しいパースペクティヴへの移行の繰り返しは、真理への絶えざる接近である。[21] 存在の深呼吸の産物たる絵画は、私たちの吸気を大幅に変え、呼気を変え、世界を変える。絵画は私たちを「別な世界」に出会わせる。「間接的言語」から引こう。

 

「色や線のある種の思いきった均衡や不均衡は、そこに半開きになっている扉が別な世界の入り口であることを発見する人を動転させる」。別な世界、――われわれはこれを、画家が見ているその同じ世界であり、それ自身の言葉を語ってはいるが、しかしそれを後ろに引っぱりあいまいな状態に引き止めておこうとする無名の重圧から解放された世界、と解しておこう。実際、画家とか詩人が、どうして世界との出会い以外のものでありえようか。抽象芸術でさえ、世界を否定したり拒否したりする或る仕方以外の何について語るのか。幾何学的な面や形を厳しく守り、それらに憑かれてみたところで、そこには、たとえ恥ずべきあるいは絶望した生活にもせよ、まだ生活の匂いがあるのだ。絵画は、散文的な世界の秩序を組みかえるのであり、そしてもしお望みならば、詩が通常の言語を燃やしてしまうように、物を生けにえにするのだ、と言ってもよい。だが、人々が再び見直したり読み返したりしたがるような作品の場合には、無秩序はつねにもう一つの秩序なのであり、新しい等価価値の体系は、他でもない、まさにこの動転を要求するのであって、そうした等価価値の間の通常の結びつきが断ちきられるのも、事物間のより真なる関係の名においてなのである。[22]

 

 扉はつねに半開きになっており、世界との出会いが待ち受けている。存在が切迫している。画家は新たな世界を啓示する。「芸術家ひとりびとりが仕事を改めて初めからやり直すのであり、世に伝えるべき新しい世界をもっているのである」。[23] 新たな世界への移行は生地の縫い直し・編み直しを必要とするのであり、編み直すためにはいったんつながりを断ち繊維を引き裂かなければならないこともある。これが「あとじさり」ということの意味なのである。新しい秩序が動転を経て人々に受け入れられるとき、画家の孤独はひとまず解消されることになるだろう。が、「実在するものの表現とは、限りない仕事」[24]であって、「あと何百万年経とうと、もしまだ世界があるならば、画家たちにとって世界はまだ描かれるべきものであるだろうし、世界はついぞ完全に描き終えられることなく終わるだろう」。[25] 過去を捉え直し更新(アップデート)する作業には終わりがないのである。

 そしてその更新作業は画家だけの役目ではなく、呼吸をするすべての者の役割である。作品が吹きこむ新鮮な空気は、鑑賞者が毎日紡ぐ言葉に乗って伝播する。作品鑑賞はどこかで確実に鑑賞者を更新しており、作品について直接論じなくとも、彼あるいは彼女のが吐く言葉は作品のこだまであり批評になっている。

 また、付け加えるならば、世界の更新を記述する務めを負っているのが哲学である。メルロ=ポンティは言っている。「哲学とは哲学自身の出発点に立ち帰って、繰り返しこれを体験し直すことである。哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する」。[26] 世界の始まり・発生、世界が私たちに触れるところに立ち帰り、記述を絶えず再開し続けること、繰り返し始めること。それはいつの間にか行われている呼吸や自らを取り囲んでいる空気に意識を向け、それをあらためて感じ直すことだ。

 

 このように、メルロ=ポンティは、私たちを取り囲みつなぐ空気と、呼吸による不断の更新について思考している。生きるとは生きなおすことである、と言い切って終いにしたい。

 

 

[1] モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』、『『眼と精神』を読む』所収、富松保文訳、武蔵野美術大学出版局、2015年、第17段落、p.96.

[2] 同書、同段落、p.95~96.

[3] 同書、第5段落、p.67.

[4] モーリス・メルロ=ポンティセザンヌの疑惑」、『意味と無意味』所収、粟津則雄訳、みすず書房、1983年、p.21,22.

[5] モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、中島盛夫訳、法政大学出版局、1982年初版、2009年新装版、p.308.

[6] 前掲『眼と精神』、第4段落。

[7] モーリス・メルロ=ポンティ「間接的言語」、『世界の散文』所収、滝浦静雄訳、みすず書房、1979年、p.96.

[8] 同書、p.106.

[9] 前掲『眼と精神』、第4段落、p.65~66.

[10] 前掲「間接的言語」、p.87.

[11] 前掲「セザンヌの疑惑」、p.24.

[12] ジャック・デリダ『アデュー』、藤本一勇訳、岩波書店、2004年、p.39.

[13] 前掲『眼と精神』、第11段落。

[14] 同書、同段落。

[15] 前掲「セザンヌの疑惑」、p.27.

[16] 前掲『眼と精神』、第16段落、p.93.

[17] 同書、第9段落、p.72~73.

[18] 加賀野井秀一が言うように、「世界内存在は、すでに意味連関を意味連関として把握できる主体や、すっかり意識になりきれる主体のレベルで語られてはならない。主体としての私の意識が登場するよりも前に、「匿名の私」としての諸器官は、すでに世界をまさぐり始めており、知覚は、前人称的、前客体化的な層において生起している。つまるところ身体は、ハイデガー的「現存在」やサルトル的「対自存在」よりもはるかに先がけ、すでにのっぴきならぬ形で世界と関わってしまっているのである」(加賀野井秀一メルロ=ポンティ 触発する思想』、白水社、2009年、p.138)。しかし世界内存在が常に世界と「融合」しているかといえば必ずしもそうではないだろう。世界からの浮上のモーメント、生地の裁ち直しのプロセスがある。

[19] 「われわれの生は純粋な「存在」ないし「客観」という目も眩むような光に向っているどころか、言葉の天文学的意味において大気(atomosphére)をもっている。われわれの生は、感性的世界もしくは歴史と呼ばれるこれらの霧に絶えず包まれている、すなわち身体的生に属するひと(on)と人間的生に属するひと(on)とに包まれ、現在と過去とに包まれているのである。これらは、数多の身体と精神の入り交じった全体として、さまざまな表情や言葉、行為の混淆として、われわれの生を包んでおり、それぞれが一つの同じ何ものかの極端な差異、偏差なのだから、それらすべての間に、それらに対して拒むことのできないこうした連関が伴っているのである。」(モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えざるもの』、中島盛夫監訳、伊藤泰雄/岩見徳夫/重野豊隆訳、法政大学出版局、1994年初版、2014年新装版、p.138.)

[20] 前掲『眼と精神』、第28段落。

[21] 「新たな現れは、たんに過去の知覚の誤りを訂正するだけではない。それは過去の現れと共存し続け、それに回顧的に意味づけを付与することによって、それを相対的に正当化してもいる」(廣瀬浩司「身体の根源的な制度化――メルロ=ポンティ存在論的身体論――」、筑波大学紀要『言語文化論集』53号所収、2000年)。

[22] 前掲「間接的言語」、p.90.

[23] 前掲『知覚の現象学』、p.314~315.

[24] 前掲「セザンヌの疑惑」p.19.

[25] 前掲『眼と精神』、第42段落、p.193~194.

[26] 前掲『知覚の現象学』、p.14.

 

 

参考文献

モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、中島盛夫訳、法政大学出版局、1982年初版、2009年新装版。

モーリス・メルロ=ポンティセザンヌの疑惑」、『意味と無意味』所収、粟津則雄訳、みすず書房、1983年。

モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』、『『眼と精神』を読む』所収、富松保文訳、武蔵野美術大学出版局、2015年。

モーリス・メルロ=ポンティ「間接的言語」、『世界の散文』所収、滝浦静雄訳、みすず書房、1979年。

モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えざるもの』、中島盛夫監訳、伊藤泰雄/岩見徳夫/重野豊隆訳、法政大学出版局、1994年初版、2014年新装版。

廣瀬浩司「身体の根源的な制度化――メルロ=ポンティ存在論的身体論――」、筑波大学紀要『言語文化論集』53号所収、2000年。

加賀野井秀一メルロ=ポンティ 触発する思想』、白水社、2009年。

ジャック・デリダ『アデュー』、藤本一勇訳、岩波書店、2004年。

茶をすする

香車の周りを跳ねる動物たち

おかしくなった心臓からのエール

ぼくたちはもうがんばることができないのだろうか

大切な感情をケミカルに抑えて

社会の端っこでうずくまるぼくら

苦いつらみの茶をすする

毛糸をたどるリスのまばたきを見ながら

トラは光っている

おろしたてのタオルのように真っ白なネコが

つまずく小石のような

無機的な幸せをぼくたちは望む

盤面にはホワイトチョコレートの細片が散り踊る

迂闊なパンダが縁から落ちる

どこまでも不器用で打つ手なしのぼくら

三角を積み上げて四角を作ろうとして

悲しい怪物ができあがる

誰にも復讐することができないので

金将を川面にアンダースローする

半熟の空を背景に

キリンに蹴られて死んでしまえよ

秋迫る九月のひととき

外出

包囲され

密封されていた

真空の膜を突き破り

ぼくはペケーッと外に出た

 

Suicaってピッて便利だね

イェーイ湘南新宿ライン

流れる夕暮れ液

子どもはいつでも打楽器奏者

 

Suicaってピッて便利だねピッて

ソリッドなハチ公尻目に

レッツ・スクランブル交差

交錯するぼくら個性的な蟻たち

 

田舎育ちの狂った蟻は

インターネットカフェに漂着

座敷 と称するにはあまりに狭く風情がない個室

また囲われている

 

息が詰まる前に

攻撃的な瞑想……

肉体を脱け出た わたし

旅に出る

 

藍 深海の木立を縫って叫ぶ銀河

そこで白熱する溶岩の喜び

和音クリスタル馬に跨ってきらきらと水中を駆け

熱狂する魚らの口々に文庫本を押し込んでゆく

 

触れると弾ける虹の金平糖を散布し終えたら

火照った地下鉄でなわとびをしよう

本当の教室で鋭い無限音楽を聴こう

何だってできる発光リンゴジュース100%!

 

小動物の断末魔! に似た隣人の歯ぎしりが

わたしをぼくに引き戻す

鈍重な肉

閉塞窒息焦燥空間

 

ウッと押さえつけられる胸

ワーッとちりちりする背中

無理だ

もうここにはいられない

 

外に出ると夜で

600mの自動車が横付けされていて

運転手は鳥で

鳥の運転手さんはドアを開けてくれる

 

「事情は承知しております

 ご案内しましょう

 紫陽花の夜を引き裂いて

 電気と酸素とレモンの国へ」