戸塚伸也作品の可能性 ~絵画と題名の関係に着目して~

 戸塚伸也作品においては、しばしば、題名と絵とはストレートに対応していない。より正確に言えば、題名の言葉がふつう喚起する概念・イメージと、名付けられている絵に描かれているものとが、何らかのかたちでずれている場合が多い。(以下、Webサイトに掲載されている作品画像と文章を参照しながら話を進める。https://www.shinyatotsuka.com/

 たとえば「Drawing Color」カテゴリの『肉体』や、「Painting 2007」カテゴリの『からあげくん』。私の知っている肉体でもからあげくんでもない、と思う。みんなそう思うだろう。画家はふつうとは違う視覚を呈示する(そのものずばり『視覚』という作品もあり(「Painting 2015」)、見たことのないものを見せてくれる)。ここまではなんというか当たり前の話。

 挙げた二作品の題名はどちらも名詞ひとつで構成されていて、それと対応していると思われるイメージがそれぞれの絵の中心にある。これが肉体で、これとこれがからあげくん。混乱はなく、ここで焦点は定まっている。

 しかしたとえば「Drawing Color」カテゴリの『蟻』は、一見して蟻が見つからない。奥に黒く小さく描かれた、人のような形をしたこれがそれなのだろうか。この絵の中心になっているように見えるのは同様に人の形をした手前の茶色のこれなので、ピントがずれている。ここで擦り合わせの現象が起こるように思われる。このふたつの焦点と相似性によって、人間が蟻のように見えてくる、あるいは、人間が蟻だと言われているように思われてくるのである。そうすると、奥の人工的な構造物は巣のようにも思われてくる。そして気になるのは、手前の茶人間の姿勢の不自然さである。歩行の途中に見えるのに、腕が垂直に下ろされている。いや、右腕は見えていない。奥のやつのように、頭の横まで手を挙げているのかもしれない。黒いのと茶色いのは同じ姿勢をとっているのではないか、あるいは、茶色いのは黒いのを左側から描いたものなのではないか。その場合、黒いのは「巣」に向かって歩いていることになる。これは「会社」のようにも見える。

 なお、このような読みは作者によって歓迎されているようだ。この画家による「Statement」は読みがいがある。

 

   単純にふたつのものが重なっているだけで、

   ふたつの間には物語が生まれます。

 

   例えばトイレットペーパーの上にりんごが

   乗ると、個々に見ることとは違う予感が

   得られます。

 

   ランダムにおかれたものたちでも、

   人が見た瞬間そこにストーリーを

   作り上げています。

 

   一定時間、見たり聞いたり感じた情報

   の後、そういった時間が存在することに

   意味があったかどうかを考えることが

   よくありますが、

   僕はその情報を自分の思想、美意識に従って

   並べ替えようとしているようです。

 

   対象物を自分だけが違う認識をする文字の

   ように捉えて、意味のある物語を伝えること

   が、僕のやるべきことだと思っています。

 

 ここでは相似性を手がかりに、題名を媒介にしてイメージが重ね合わされ、すでに述べたような解釈を誘発しているわけである(分析には手間がかかったが前述の内容は実際にはほとんど直感されるものである)。この文章にはまた立ち返りたい。

 もうひとつ名詞だけの題名の作品を見てみよう。「Painting 2007」の『ビタミン』は面食らう作品だ。いったいどれが、どこがビタミンなのだろうか。焦点が定まらず、全体がそれだという感じもしない。こうした場合、絵をより丹念に見ることになると思うのだが、そうしてじっくり見ているとたとえば以下のような考えが生まれてくる。このキャラクター、フォルムが「ドラえもん」に似ていなくもなく、色もそれっぽく見えなくもない。そうするとこれは「四次元ポケット」だろうか。そこから何か黄色いものがはみ出ているが、これは何だかさっぱりわからない。その「ポケット」あたりと頭頂部が2本の紐状のもので結ばれている。「髪の毛」だろうか、「管」だろうか。無尽蔵に出てくるイメージのある「四次元ポケット」から「ビタミン」を吸い上げている……? この頭部の形と色の分かれ方は「気球」のようでもある。「目から鱗が落ち」ているようにも見え……。画家がどういった意図で名付けたのかはわからないが、『ビタミン』はこのように探査を促し鑑賞者の読みを引き出す作品になっている。

 次に「AとB」タイプの題名が付けられた作品を見ていきたい。名詞ふたつが助詞を挟んで並列しているもので、その関係性が問題になってくる。

 「Drawing Color」の『うさぎとフライパン』。うさぎとフライパンという取り合わせは、うさぎを食べる文化がない私たち日本人にとってはかなり意外性のあるものだ。この絵には左方に頭に巨大なスプーンのようなものがくっついた半袖短パンの少年、右方にうさぎが配されている。題名から、このスプーンのようなものがフライパンなのだと推察されるわけだが、この少年が一気に置き去りにされる感じがあって笑ってしまう。一部の焦点化と同時に他の周縁化が起こるわけである。彼は近付こうとしたうさぎにも逃げられている。ただ彼にはまだ大きな特徴があり、胸に時計がある。三角の突起が服をはみ出していることから、これは服の柄ではなく服に取り付けられたものだとわかる。針は七時五分を指している。背景が白く、影もできていることからおそらく朝の七時五分だと思われる。少年が上半身に着ている服は二枚あり、半袖の上にベストを着ることはあまり考えられないので、外側の緑の一枚はビブスではないかと思われる。こうして次のようなストーリーが思い浮かぶ。中学生の秀斗くんは今日もサッカー部の朝練。時間を気にして食べそびれた朝食のことが頭にある。目玉焼き食べたかったな、などと思いながらふと見ると、そこにうさぎがいる。きっと学校の敷地の隅にある檻から逃げ出してきたのだろう。捕まえなければ。しかしうさぎはどこか嫌そうな顔をして物陰のほうへ走って行ってしまうのであった。

 続いて「Painting 2007」の『きつねとリス』を見てみよう。手前がランドルト環のように欠けた灰色もしくは銀色のリングがあり、その内側にふたりあるいは二匹が向かい合って体育座りしている(このリングの領域性はその上方にも輪が描かれることで補強されており、またその輪に垂直に接するように満月のようなものが描かれ、形態のリズムを作っている)。右がきつねで左がリスだと思われるのだが、リスが異形である。顔の造作がよくわからず、頭の上に何かカオティックな物体が煮えている。漫画の吹き出しのようなものが描かれていることから、きつねが何か話しかけていることがわかるが、吹き出しの中身は空白でその内容はわからない。きつねがその吹き出しを指差しているように見えることから、その空白が強調されているように思われる(あるいはひょっとするとこれは視力検査のときの手振りだろうか)。果たして二者のコミュニケーションは成立しているのだろうか。考えすぎかもしれないが、ひらがなとカタカナになっている題名は、非対称的な関係を表しているのかもしれない。

 同じく「Painting 2007」の『ねことねずみ』と題された二作品も見ておきたい。ねことねずみというと、食うものと食われるものの組み合わせ、捕食関係になっているわけだが、まず見る一枚目の絵画においてはこの関係がより先鋭に描かれているようである。左の黄色い顔をしたこれがねこだろう。そうすると、例によって確かなことは言えないが、右のこれ――何と言ったらいいのだろうか――がねずみということになる。「ねこ」のからだはタコのようになっていて(ところどころ痛々しく傷ついている)、「ねずみ」と接続されているようである。『ビタミン』ではないが、ねこがねずみから栄養を得ているということをグロテスクなまでに表現した作品であると考えられる。「ねこ」と「ねずみ」の形や目(?)の色が似せて描かれることで共喰いのようなどぎつさが出ている。人間に引き付けて捉えると、「食い物にする」ということを生々しく描いているとも取れる。これに対して、二枚目の絵画からは、全く異なった関係が読み取れる。二足で直立したねこが両腕を左右に広げて止まれの合図をしているように見える。その右にいて、庇われているような格好になっているのがねずみだろう。左にいるのは何だかわからないが、それに気付いたねこが前進を制していると考えられる。舞台はRPGのダンジョンだろうか。何にせよ、ここではねことねずみは仲間関係にあるようである。このようにして、この同名異作は、同じ組み合わせでも異なる関係性や物語を描きうるということを端的に示している(これは同じ役者たちが違和感なく異なる映画に出ることと似ている)。

 「AとB」タイプの作品をもうひとつ。「Drawing 2014」の『歩道橋とコーヒー – コーヒーから立ち上る湯気と歩道橋から立ち上る二酸化炭素。これらは煙だ。』は、歩道橋とコーヒーを結び付ける強引さが面白い。歩道橋から二酸化炭素が立ち上るというのはいったいどういうことなのだろうと思うが、コーヒーを背にした女性と歩道橋を背にした男性が手を取り合い、おたがいの頭に付いた煙突から出る煙が混じり合っているイメージによって、歩道橋とコーヒーが奇跡的な一致を見ている。男女の出会いを運命だと言い募る口説きのようでもある。言葉の魔法と絵の魔法、それぞれの力を感じさせる作品だ。

 この流れで『ポッキーが立つ – ポッキーから骨を思い出し、そして人類が初めて立った日のことを思いました。』(「Drawing 2014」)も見てみよう。わけもわからず爆笑してしまった作品なのだが、とにかくこの犬のような猫のような動物がポッキーなのだろう(なぜ半角なのだろう)。最初はさっぱりわからなかったが、「ポッキーから骨を思い出」すルートはふたつあるようである。ポッキーという言葉からあのグリコの棒状のお菓子が思い浮かび、そこから骨が連想されるというのがひとつ。このポッキーというキャラが犬のように見えることから、それがしゃぶるものとして骨が思い起こされるというのがもうひとつ。書いてみて思ったが非常にどうでもいい分析だった。とにかくポッキーは立った。見逃せないのが(見逃しようがないが)、「ポッキー」の文字がポッキーの傍らに配されている点である。このある種の過剰さが笑いを誘う。そしてポッキーと同じような動物が背中合わせになっているのも気になる。「ポッキー」の文字も二重になっている。よくわからないが右のピンクの魚はヒラメで、左の黄色の魚はカレイなのではないかと思った。これに関しては何も聞かないでほしい。

 文字が描かれている絵はほかにもある、というか、文字で構成されている絵がある。「Painting 2012」の『えミィでぃあトリィ Immediately』はそのうちのひとつだが、文字が描かれているとはおそらく絵だけ見ても気付かないだろう。題名を知った後でも、どこがどの文字なのかの対応を確認するのは難しい。ここで言葉は単なる音の連なりになり意味することをやめ、ばらばらの文字になり、着色され、歪形され、新しく結び合わされている。この解体と凝縮の手つきはシュルレアリスム的であるとも言える。

 先日行われた永瀬恭一氏との対談「私的占領、絵画の論理」第四回「環境と意識と絵画」(イベント概要:http://www.arttrace.org/event/shitekisenryou04.html、永瀬氏によるレポート:https://note.com/nagasek/n/n6114c5a49f00)で画家の話したところによれば、こうした文字の絵は聞き取りの失敗をきっかけとして制作されたという。意味以前の印象を絵画に落とし込んだのだと。また、日常で覚えた違和感を絵画的処理と配置によって解決しているというようなことも伺った。言語的・社会的つまずきから出発するこの方法は、個人的な問題の解決に留まらず広く秩序を作り変えるような可能性を秘めているように思われ興味深い。「Statement」を振り返れば、「単純にふたつのものが重なっているだけで、/ふたつの間には物語が生まれます。//例えばトイレットペーパーの上にりんごが/乗ると、個々に見ることとは違う予感が/得られます。」というように、画家の言う物語とは、すでに語られたものではなく、可能性として「予感」されるもの、可能性としての物語だった。だから「意味のある物語」とは、通貨のようにやり取りされる既存の意味とは違った可能性のことを言っているようだ(2020年11月現在、Twitterのプロフィール欄にある「日々の情報を、図、文、印刷、などの方法で意味から遠ざかるために作っています」の「意味」はこの通貨的な意味のことを指しているだろう)。物語は戸塚作品にすでに書き込まれているわけではなく、見るひとそれぞれが書き‐読み込んでいくものなのである。うまく接続するかわからないが、引用しておこう。「おそらく絵とは、同時にあらゆる仮説や物語の可能性であるということができる。しかしそれは絵それ自体が物語を免れているからである」(ジル・ドゥルーズ著・宇野邦一訳『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』、河出書房新社、2016年、p.97)。

 まとめておこう。私たちは、『肉体』と『からあげくん』にイメージの更新あるいは創出を、『蟻』に題名をうまく利用したイメージの重ね合わせの仕掛けを見た。題名には焦点を作る作用があるが、『ビタミン』においてはそれがただちに機能せず、その効果として鑑賞者を探査に誘うことを確認し、『うさぎとフライパン』には焦点化と周縁化が同時に起こることを感知した。『きつねとリス』からは非対称的な関係を見て取り、『ねことねずみ』二作品には関係の激化と異化、および様々な物語への開かれとでも言うべきものを見た。『歩道橋とコーヒー – コーヒーから立ち上る湯気と歩道橋から立ち上る二酸化炭素。これらは煙だ。』において言葉の力と絵の力によって遠い事物がつながれる様を目の当たりにし、『ポッキーが立つ – ポッキーから骨を思い出し、そして人類が初めて立った日のことを思いました。』で笑い、『えミィでぃあトリィ Immediately』に言葉の解体と絵画のかたちでの凝縮を見た。

 この画家はいわゆる固定観念を峻拒している。ねこはこうで、ねずみはこうで、ねことねずみはこう、というような決めつけを入念に外し、ずらすということをしているようである。題名の持つ焦点化・中心化作用や絵画を統御・支配しようとする力にも敏感である。要は言葉の力をよくわかっており、それに抵抗するような作品を作っている。対談でも言及されていたが、そうした抵抗の姿勢は色彩にも表れており、戸塚作品では多くの場合、対象物は固有色とずれた色を持たされている(色彩は戸塚作品の魅力の大きな部分を担っていると感じる。論旨と書き手としての力量不足のため取り上げることができなかったが、『夜の川』、『水道』、『電気街』、『花レ類』、『まわりしかない』といった作品に強く惹かれる。機会があれば論じてみたい)。これからも「違う認識」を存分に表現してほしいと思う。絵画と言葉のバチバチの緊張関係を、もっと見たい。

 

 

参考サイト

・Shinya Totsuka Website https://www.shinyatotsuka.com/

・一人組立(永瀬恭一)https://note.com/nagasek

・連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」 第四回「環境と意識と絵画」─戸塚伸也─ レポート https://note.com/nagasek/n/n6114c5a49f00