離れる音にいる――岡田幸生『句集 無伴奏』七句評

きょうは顔も休みだ

おつりのコインがひえている

夕日の出して見せたような鷲だった

各駅停車だから見える質屋だ

つめたい手紙がよく燃えている

爪を切った指が長い

王冠と瓶の離れる音にいる

岡田幸生『句集 無伴奏

 

きょうは顔も休みだ

きょうは休日で、顔も働かない、営業しない。休日でも顔をつくることがあるが、それもない。誰とも会わないのだろう。たぶん朝、洗面所とかで、そう思っている。足も休みで、どこにも行かないのかもしれない。「は」と「も」というふたつの助詞が大活躍している。

 

おつりのコインがひえている

指で冬を感じている。感覚がすっと伝わってくる。コインは複数枚あるだろう。

 

夕日の出して見せたような鷲だった

夕日からマジックのように鷲が出てきた。力のある夕日とそれを背負った鷲。鮮やかだ。

 

各駅停車だから見える質屋だ

小さめの駅の前に質屋があり、停まった電車からそれが見える。質屋が見えている、各駅停車だから見えているのだ、ということはあれは「各駅停車だから見える質屋だ」。少し高次の認識を言っているのがなんだか面白い。駅前に質屋があるというリアリティも良い。

 

つめたい手紙がよく燃えている

冬は紙もつめたい。燃えているということは熱いはず、という常識的な思考は、しかしこの手紙のつめたさを否定することはできない。あるいは、手紙の内容がつめたいのだろうか。つめたいことを書かれて、傷ついて、燃やしてしまっているのだと。そうだとしても、そのつめたさも消し去ることはできない。

 

爪を切った指が長い

爪の先までを指として捉えるならば、爪を切ったら指はより短く感じられるはずだが、長い、と言っている。爪を切る前と切った後を比べて長いと言っているわけではなく、爪切りという営みをとおしてあらためて指というものを意識して、長い、と思っているのだ。それはほかのひとと比べて長いということでありうるが、そうである必要はない。指とは細くて長いものなのだ。

 

王冠と瓶の離れる音にいる

瓶ビールだろうか、その蓋の王冠を開ける動作が行われているはずなのだが、瓶の蓋を開ける、とも、瓶の蓋が(ほかのひとによって)開けられる、とも言っていない。王冠と瓶の離れる音、と言っている。だからわたしが見ているという意識は希薄で、客観が突き詰められている、と思ったら、「にいる」である。衝撃だ。「音にいる」という表現だけをまず見てみる。存在を意味しようとして「~にいる」と言うとき、ふつう「~」には場所を示す言葉が入るが、ここで入っているのは「音」だ。少し戸惑いはするものの、この「音」とは音の鳴っている時空間というほどの意味だろうと了解はでき、そこに大きな驚きはない。驚くべきは、この音は瓶の蓋が開く一瞬の快音であって、それが鳴る時空間も一瞬しかない、そこにいると言われていることだ。そして、書かれていない主語がわたしだとするならば、もはやわたしはこの一瞬の音と同一化しているようなものであって、きわめて主観的な句であるとも言えるのだ。あるいは、主語はその場にいる他者を含む、わたしたち、であるのかもしれない。そこにこの句を共有し体験する読み手を含んでもいい、のかもしれない。

『句集 無伴奏』に収められている句は、五・七・五に当てはめて読めるこの句でさえ自由律俳句と呼ばれるものだが、その多くに当てはまる特徴は「瞬間性」ではないかと思える。一瞬の感覚や認識を詠むこと、そこに本領があると感じるのだ(この点、すでにどこかで指摘されている場合ご教示願いたい)。句切れがなく、区切りがなく、すっと一息で読まれる一行の詩。僭越ながら、そんなことを思って詠んだ以下の句を結びに代えたい。

  

一滴でも雨だ

/水城鉄茶

 

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 『句集 無伴奏』をおわけします - ひみつうしん