離れる音にいる――岡田幸生『句集 無伴奏』七句評

きょうは顔も休みだ

おつりのコインがひえている

夕日の出して見せたような鷲だった

各駅停車だから見える質屋だ

つめたい手紙がよく燃えている

爪を切った指が長い

王冠と瓶の離れる音にいる

岡田幸生『句集 無伴奏

 

きょうは顔も休みだ

きょうは休日で、顔も働かない、営業しない。休日でも顔をつくることがあるが、それもない。誰とも会わないのだろう。たぶん朝、洗面所とかで、そう思っている。足も休みで、どこにも行かないのかもしれない。「は」と「も」というふたつの助詞が大活躍している。

 

おつりのコインがひえている

指で冬を感じている。感覚がすっと伝わってくる。コインは複数枚あるだろう。

 

夕日の出して見せたような鷲だった

夕日からマジックのように鷲が出てきた。力のある夕日とそれを背負った鷲。鮮やかだ。

 

各駅停車だから見える質屋だ

小さめの駅の前に質屋があり、停まった電車からそれが見える。質屋が見えている、各駅停車だから見えているのだ、ということはあれは「各駅停車だから見える質屋だ」。少し高次の認識を言っているのがなんだか面白い。駅前に質屋があるというリアリティも良い。

 

つめたい手紙がよく燃えている

冬は紙もつめたい。燃えているということは熱いはず、という常識的な思考は、しかしこの手紙のつめたさを否定することはできない。あるいは、手紙の内容がつめたいのだろうか。つめたいことを書かれて、傷ついて、燃やしてしまっているのだと。そうだとしても、そのつめたさも消し去ることはできない。

 

爪を切った指が長い

爪の先までを指として捉えるならば、爪を切ったら指はより短く感じられるはずだが、長い、と言っている。爪を切る前と切った後を比べて長いと言っているわけではなく、爪切りという営みをとおしてあらためて指というものを意識して、長い、と思っているのだ。それはほかのひとと比べて長いということでありうるが、そうである必要はない。指とは細くて長いものなのだ。

 

王冠と瓶の離れる音にいる

瓶ビールだろうか、その蓋の王冠を開ける動作が行われているはずなのだが、瓶の蓋を開ける、とも、瓶の蓋が(ほかのひとによって)開けられる、とも言っていない。王冠と瓶の離れる音、と言っている。だからわたしが見ているという意識は希薄で、客観が突き詰められている、と思ったら、「にいる」である。衝撃だ。「音にいる」という表現だけをまず見てみる。存在を意味しようとして「~にいる」と言うとき、ふつう「~」には場所を示す言葉が入るが、ここで入っているのは「音」だ。少し戸惑いはするものの、この「音」とは音の鳴っている時空間というほどの意味だろうと了解はでき、そこに大きな驚きはない。驚くべきは、この音は瓶の蓋が開く一瞬の快音であって、それが鳴る時空間も一瞬しかない、そこにいると言われていることだ。そして、書かれていない主語がわたしだとするならば、もはやわたしはこの一瞬の音と同一化しているようなものであって、きわめて主観的な句であるとも言えるのだ。あるいは、主語はその場にいる他者を含む、わたしたち、であるのかもしれない。そこにこの句を共有し体験する読み手を含んでもいい、のかもしれない。

『句集 無伴奏』に収められている句は、五・七・五に当てはめて読めるこの句でさえ自由律俳句と呼ばれるものだが、その多くに当てはまる特徴は「瞬間性」ではないかと思える。一瞬の感覚や認識を詠むこと、そこに本領があると感じるのだ(この点、すでにどこかで指摘されている場合ご教示願いたい)。句切れがなく、区切りがなく、すっと一息で読まれる一行の詩。僭越ながら、そんなことを思って詠んだ以下の句を結びに代えたい。

  

一滴でも雨だ

/水城鉄茶

 

※なお、『句集 無伴奏』は以下リンク先より入手できる(2021.6.22時点)。

 『句集 無伴奏』をおわけします - ひみつうしん

ブランドものの破壊力とばあちゃんの思い出――雪舟えま『たんぽるぽる』十首評

タカハシの天体望遠鏡みたいおまえのふとももは世界一

逢えばくるうこころ逢わなければくるうこころ愛に友だちはいない

玄関の鉢に五匹のめだかいてひろい範囲がゆるされている

信号が果てまでぱーっと青くなりアスリートだと思い出す夜

どこでそんな服をみつけてくるのだろうこのひとにわたしをぶつけよう

うれいなくたのしく生きよ娘たち熊銀行に鮭をあずけて

パソコンをつけるの? きっとUFOのことでもちきり 辛いだけだよ

妖精の柩に今年はじめての霜が降りた、という名のケーキ

ばあちゃんは屑籠にごみ放るのがうまかった(ばあちゃん期Ⅱ期まで)

あいしてよ桜 ギターを弾くときにちょっぴり口のとがる男を

 

雪舟えま『たんぽるぽる』(短歌研究社、2011年)

 

タカハシの天体望遠鏡みたいおまえのふとももは世界一

天体望遠鏡で何を喩えるのかと思ったら「おまえのふともも」で、それをすかさず「世界一」と断言してこられて笑ってしまう。知らずともタカハシというのはメーカーないしブランドの名前だと予想がつくが、「タカハシの天体望遠鏡」と「おまえのふともも」がどちらも「AのB」という形をとり、前者が後者の喩とされているために、「タカハシ」と「おまえ」が等置されているように感じられ、結果として「おまえのふともも」が「おまえというブランドのふともも」というニュアンスを帯びるように思われてひたすらおかしくなる。調べるとタカハシは世界的に有名な天体望遠鏡メーカーだとわかり、白くておそらくすべすべしていて円筒状であるふとももを「タカハシの天体望遠鏡」と喩えることの妥当性が読み手のなかで補強されることになるのだが、一番に伝わってくるのはやはり「おまえのふとももは世界一」というフレーズ、その破壊力だ。

 

逢えばくるうこころ逢わなければくるうこころ愛に友だちはいない

そうですよね。

 

玄関の鉢に五匹のめだかいてひろい範囲がゆるされている

めだかがいることによって玄関のあたりに生まれる雰囲気を「ゆるされている」と言い留めたところにこの上ない非凡さが表れている。ところでなぜ五匹なのか。音数の制約があり、匹の前に入れる数詞は二か五に限られる(とする)。二匹では「ひろい範囲がゆるされている」感じは出ないと判断されたのだろう。おそらく二匹だとその一対一の関係に思いが行ってしまい、周囲に開かれない。実景という可能性もないわけではないが、ちょうど五匹だったということはあまり考えられないだろう。

 

信号が果てまでぱーっと青くなりアスリートだと思い出す夜

上の句でやや幻想的な光景が直線的に広がる(果てまで見えるということはこの道路は直線であるということだと判断される)。どこまでも止まることなく進むことができる。そこを走るものとして現れるのは、車ではなく、アスリートとしての自覚を得たわたしである。「信号が果てまでぱーっと青くな」ったところを思い浮かべてみれば、確かに走りたくなるだろうと想像できる。そして最後に「夜」と置かれることで、信号の青い光が一気に美しく引き立って幻想性を増し、わたしはその夢のようなトラックを走り出すだろう。

 

どこでそんな服をみつけてくるのだろうこのひとにわたしをぶつけよう

面白い上の句に面白い下の句をそれこそぶつけるようにして作られていて、それが成功している。当たり前のように「わたし」の「このひと」への好意を読み取ることができると思うのだが、これは考えてみればちょっと不思議なことで、変わった服を着ているひとに好意を抱くことは別に自然なことではないし、「このひとにわたしをぶつけよう」はたとえば挑戦しようとか加害しようというふうにも読みうる。そうならないのは、短歌としてこのように、ゆるく切れつつゆるく接がれているからにほかならない。恋愛対象にアプローチすることを「アタックする」と言うことがあるが、「わたしをぶつけ」ると言うほうが全力感が出る。「ぶつかっていこう」といった自動詞を使った言い方もできたはずだが、「わたしをぶつけ」ると言うほうが、物を投げるときにそれに伝わる遠心力のようなものを感じられてやはりより力強く感じる。もちろんこのように比較しなくとも、「このひとにわたしをぶつけよう」というフレーズには絶対的な破壊力があるわけだが。

 

うれいなくたのしく生きよ娘たち熊銀行に鮭をあずけて

かわいい。

 

パソコンをつけるの? きっとUFOのことでもちきり 辛いだけだよ

「UFOのことでもちきり」というのを自分の生活とはかけ離れた話題でわいわいしている状態と読むことも確かにできるが、比喩でなく実際にUFOの話が盛んにされていると読んでみたい。たとえば Twitter のタイムラインを、たくさんのUFOが横断、いや縦断していく様子を思い浮かべてみたい。UFOの画像ツイートあるいは動画ツイートがバンバンリツイートされ、それについて様々な角度からのトーンのコメントが溢れる様子を。楽しそうにも思えるが、乗れない者にとっては「辛いだけ」なのかもしれない。

 

妖精の柩に今年はじめての霜が降りた、という名のケーキ

着地がすごい。

 

ばあちゃんは屑籠にごみ放るのがうまかった(ばあちゃん期Ⅱ期まで)

「ばあちゃん」はゴミ箱に物を投げ入れるのが上手だったというどうでもよくささやかで微笑ましい内容や「ばあちゃん期Ⅱ期」というフレーズの面白さから、一読して明るい印象を受けるが、ばあちゃん期Ⅲ期からは上手く投げられなくなってしまったのだということに気付くと俄かに切なさに襲われることになる。そうした陰影を含んで、「ばあちゃんは屑籠にごみ放るのがうまかった」ということは、より深みのある思い出として立ち現れてくる。「屑籠にごみ放る」という言い回しは、「ばあちゃん」の言い方を継いだものに違いない。

 

あいしてよ桜 ギターを弾くときにちょっぴり口のとがる男を

「あいしてよ桜」とは歌謡曲のような歌いだしだなと思うと、ギターが出てくる。桜に誰を「あいして」と言うのか。ギターを弾く男だ。「ギターを弾くときにちょっぴり口のとがる男」、いる。絶妙なあるある感というかいるいる感だが、その共感性だけで終わっていないのがこの歌の良いところだ。あるあるな、いるいるな男を、桜よ、「あいして」くれ。この呼びかけをしているのは男自身なのかもしれない。「あいして」とひらがなにしているのは、男のキザさを表現するためなのかもしれない。雪舟は(集中では)作中主体が自身と重なるような別の歌では「愛する」と漢字表記にしている(p.7、66、69の歌を参照)。

 

『たんぽるぽる』は12章から成っているが、「3. 魔物のように幸せに」のエピグラフを引用して結びに代える。

あたしを抱きしめて「おまえも自転車買え。」っていったの、覚えてますか?

「買う。」とあたしはいって、いきなり空は十倍も高く、深くなったのでびっくりしました。

たんぽるぽる (かばんBOOKS)

たんぽるぽる (かばんBOOKS)

  • 作者:雪舟えま
  • 発売日: 2011/04/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

句集にたどり着くこと――川合大祐『スロー・リバー』十句評

二億年後の夕焼けに立つのび太

この列は島耕作の社葬だな

プラモデルパーツの夏目漱石

黄が白を差別せぬよう卵混ぜ

世界からサランラップが剝がせない

生涯をかけて醬油を拭き取ろう

四コマの承のところでわからない

ヤバイってみんな言ってる光あれ

随分と弁当的な遺書である

東京に全員着いたことがない

/川合大祐『スロー・リバー』

 

川合大祐さんの川柳に関して言われたことでは、樋口由紀子さんがライブ川柳句会0015 | 毎週web句会で川合さんの提出された句「二月以後裸婦の細胞分裂し」を評して「おいしい言葉、いかにも何かありそうな言葉が並んでいるんだけれども全部が借り物っぽく、空洞的な感じがした」という旨のことを述べられていたのが印象に残っており、私も川合さんの毎日ツイートされる句を読んで、その半数ほどに対して似たようなことを思ってきた。そのため句集に手が出てこなかったのだが、先日ご本人がツイキャスで、上にも挙げたのび太句や漱石句を紹介されていて、これは読まなければと思い、ようやくこの第一句集『スロー・リバー』を入手、読んでみればご覧のように面白い句がたくさん見つかった。

確かに、

二億年後の夕焼けに立つのび太

のような句には問題の借り物っぽさを指摘できなくもないが、おいしさが勝っているという感じがする。『ドラえもん』から借りられてきたのび太が途方もない未来の夕焼けに立たされて、なんだか面白くなっているし、最終回の切なさのようなものも感じる。そしてスケールが大きい。

世界からサランラップが剝がせない 

の句も、「世界」というバカでかい言葉を使っているが、そこにしれっとサランラップを被せておいて、それを剝がそうとしているがうまくいかないという状況を描くことで、世界を身近で感覚的なものとしてうまく手繰り寄せていると思う。

固有名詞を利用した句では、

この列は島耕作の社葬だな

プラモデルパーツの夏目漱石

も良い。喪服の長い列を見て島耕作の社葬だなと言っている。面白い。本当に島耕作の社葬なら、どこまで出世した時点で亡くなったかによって列の長さが変わってきそうだ。夏目漱石をプラモデルパーツにするという発想はヤバい。漱石は俳句を作っていたし、最後の「や」は詠嘆だろうと思う。漱石さんよ、プラモデルパーツになってしまったんだね。並列と取っても面白く、そうすると同じくプラモデルパーツと化した芥川龍之介太宰治が並んで、組み立てると文豪ロボット的なものができるのだろうと思う。弱そう。

黄が白を差別せぬよう卵混ぜ

は、川柳らしい良い川柳だなあと思う。黄、白、差別と来れば、白人がアジア人を差別する構図が思い浮かぶわけだが、ここでは卵の黄身が白身を差別するという力関係を提示し(なるほど黄身のほうが卵の本質を担っていて偉そうだ)、しかもそれを壊して見せている。鮮やかな手並みだ。逆に、卵を混ぜるという動作から考えると、そこに黄身が白身を差別しないようにという意味付けをすることの異様さが際立ってくる。

卵かけご飯の流れのようだが、

生涯をかけて醬油を拭き取ろう

も面白かった。生涯をかけて拭き取るくらいの量の醬油がある。ボトルをぶちまけたのだろうか。それにしても多すぎるのだ。生涯と来たので遺書の句、

随分と弁当的な遺書である

も良いと思った。「弁当的な」が素晴らしい。弁当と遺書が離れすぎるくらい離れている気がするのだが、「随分と」と「的な」で不思議と調整されているような感じがする。遺書が弁当で明るくなっていて、暗さも調節されていると言える。明るさで言えば、

ヤバイってみんな言ってる光あれ

も面白かった。「光あれ」は聖書から持ってきていると思うが、「ヤバイってみんな言ってる/光あれ」、と区切って読むこともできるし、「ヤバイってみんな言ってる光」あれ、とつなげて読むこともできる。前者はさらに二通りに読めて、みんながヤバイヤバイ言っている状況で何者か(神?)が「光あれ」と言い放っているとも取れるし、「光あれ」ってヤバイよねとみんなが言っているとも取れる。つなげて読むと、「ヤバイってみんな言ってる光」って何だよという話になる。閃光弾の発する強烈な光だろうか。

さてこの原稿も終盤だが、

四コマの承のところでわからない

も良い味を出している。四コマ漫画はそれぞれのコマが順番に起承転結の役割を担うことが基本とされる形式であるわけだが、おそらくその二コマ目、つまり一コマ目で生起した物事が自然に展開していくはずの「承」のところですでにわからなくなっている。そうなったらもう「転」も「結」もわかるわけがない。五里霧中である。

闇雲に適当な構成で書いてきたが、いよいよ最後の句にたどり着く。

東京に全員着いたことがない

何名かわからないが、たぶんそれなりの人数で出発するのだが、東京に着くまでに必ず誰かしか脱落してしまう。シンプルながらとても笑える。本稿はここまでで2000字とまあまあ長いが、脱落者が出ないことを祈っている。ここまで読んでくれたあなたには感謝を申し上げる。

しかしゴールはここではない。多くの読者は句集というものを、とくに川柳句集というものを手にしたことがないだろう。ぜひ句集までたどり着いてほしいと思う。句歴が短く僭越ながら、私からはこの句集のほかに『広瀬ちえみ集』『樋口由紀子集』『石部明集』を薦めておきたい。最近出版された川柳のアンソロジーには『金曜日の川柳』『はじめまして現代川柳』がある。

 

追記(2021.4.18):この度、川合さんの第二句集『リバー・ワールド』が上梓された。さっそく拝読したが本当に素晴らしい句集で、強くおすすめできる。これについてもどこかで何か書きたいと思う。

 

川柳句集 スロー・リバー

川柳句集 スロー・リバー

  • 作者:川合大祐
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

リバー・ワールド

リバー・ワールド

  • 作者:川合大祐
  • 発売日: 2021/04/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

 

 

www.amazon.co.jp

 

金曜日の川柳

金曜日の川柳

  • 作者:樋口由紀子
  • 発売日: 2020/03/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

はじめまして現代川柳

はじめまして現代川柳

  • 作者:小池正博
  • 発売日: 2020/10/29
  • メディア: 単行本
 

 

 

戸塚伸也作品の可能性 ~絵画と題名の関係に着目して~

 戸塚伸也作品においては、しばしば、題名と絵とはストレートに対応していない。より正確に言えば、題名の言葉がふつう喚起する概念・イメージと、名付けられている絵に描かれているものとが、何らかのかたちでずれている場合が多い。(以下、Webサイトに掲載されている作品画像と文章を参照しながら話を進める。https://www.shinyatotsuka.com/

 たとえば「Drawing Color」カテゴリの『肉体』や、「Painting 2007」カテゴリの『からあげくん』。私の知っている肉体でもからあげくんでもない、と思う。みんなそう思うだろう。画家はふつうとは違う視覚を呈示する(そのものずばり『視覚』という作品もあり(「Painting 2015」)、見たことのないものを見せてくれる)。ここまではなんというか当たり前の話。

 挙げた二作品の題名はどちらも名詞ひとつで構成されていて、それと対応していると思われるイメージがそれぞれの絵の中心にある。これが肉体で、これとこれがからあげくん。混乱はなく、ここで焦点は定まっている。

 しかしたとえば「Drawing Color」カテゴリの『蟻』は、一見して蟻が見つからない。奥に黒く小さく描かれた、人のような形をしたこれがそれなのだろうか。この絵の中心になっているように見えるのは同様に人の形をした手前の茶色のこれなので、ピントがずれている。ここで擦り合わせの現象が起こるように思われる。このふたつの焦点と相似性によって、人間が蟻のように見えてくる、あるいは、人間が蟻だと言われているように思われてくるのである。そうすると、奥の人工的な構造物は巣のようにも思われてくる。そして気になるのは、手前の茶人間の姿勢の不自然さである。歩行の途中に見えるのに、腕が垂直に下ろされている。いや、右腕は見えていない。奥のやつのように、頭の横まで手を挙げているのかもしれない。黒いのと茶色いのは同じ姿勢をとっているのではないか、あるいは、茶色いのは黒いのを左側から描いたものなのではないか。その場合、黒いのは「巣」に向かって歩いていることになる。これは「会社」のようにも見える。

 なお、このような読みは作者によって歓迎されているようだ。この画家による「Statement」は読みがいがある。

 

   単純にふたつのものが重なっているだけで、

   ふたつの間には物語が生まれます。

 

   例えばトイレットペーパーの上にりんごが

   乗ると、個々に見ることとは違う予感が

   得られます。

 

   ランダムにおかれたものたちでも、

   人が見た瞬間そこにストーリーを

   作り上げています。

 

   一定時間、見たり聞いたり感じた情報

   の後、そういった時間が存在することに

   意味があったかどうかを考えることが

   よくありますが、

   僕はその情報を自分の思想、美意識に従って

   並べ替えようとしているようです。

 

   対象物を自分だけが違う認識をする文字の

   ように捉えて、意味のある物語を伝えること

   が、僕のやるべきことだと思っています。

 

 ここでは相似性を手がかりに、題名を媒介にしてイメージが重ね合わされ、すでに述べたような解釈を誘発しているわけである(分析には手間がかかったが前述の内容は実際にはほとんど直感されるものである)。この文章にはまた立ち返りたい。

 もうひとつ名詞だけの題名の作品を見てみよう。「Painting 2007」の『ビタミン』は面食らう作品だ。いったいどれが、どこがビタミンなのだろうか。焦点が定まらず、全体がそれだという感じもしない。こうした場合、絵をより丹念に見ることになると思うのだが、そうしてじっくり見ているとたとえば以下のような考えが生まれてくる。このキャラクター、フォルムが「ドラえもん」に似ていなくもなく、色もそれっぽく見えなくもない。そうするとこれは「四次元ポケット」だろうか。そこから何か黄色いものがはみ出ているが、これは何だかさっぱりわからない。その「ポケット」あたりと頭頂部が2本の紐状のもので結ばれている。「髪の毛」だろうか、「管」だろうか。無尽蔵に出てくるイメージのある「四次元ポケット」から「ビタミン」を吸い上げている……? この頭部の形と色の分かれ方は「気球」のようでもある。「目から鱗が落ち」ているようにも見え……。画家がどういった意図で名付けたのかはわからないが、『ビタミン』はこのように探査を促し鑑賞者の読みを引き出す作品になっている。

 次に「AとB」タイプの題名が付けられた作品を見ていきたい。名詞ふたつが助詞を挟んで並列しているもので、その関係性が問題になってくる。

 「Drawing Color」の『うさぎとフライパン』。うさぎとフライパンという取り合わせは、うさぎを食べる文化がない私たち日本人にとってはかなり意外性のあるものだ。この絵には左方に頭に巨大なスプーンのようなものがくっついた半袖短パンの少年、右方にうさぎが配されている。題名から、このスプーンのようなものがフライパンなのだと推察されるわけだが、この少年が一気に置き去りにされる感じがあって笑ってしまう。一部の焦点化と同時に他の周縁化が起こるわけである。彼は近付こうとしたうさぎにも逃げられている。ただ彼にはまだ大きな特徴があり、胸に時計がある。三角の突起が服をはみ出していることから、これは服の柄ではなく服に取り付けられたものだとわかる。針は七時五分を指している。背景が白く、影もできていることからおそらく朝の七時五分だと思われる。少年が上半身に着ている服は二枚あり、半袖の上にベストを着ることはあまり考えられないので、外側の緑の一枚はビブスではないかと思われる。こうして次のようなストーリーが思い浮かぶ。中学生の秀斗くんは今日もサッカー部の朝練。時間を気にして食べそびれた朝食のことが頭にある。目玉焼き食べたかったな、などと思いながらふと見ると、そこにうさぎがいる。きっと学校の敷地の隅にある檻から逃げ出してきたのだろう。捕まえなければ。しかしうさぎはどこか嫌そうな顔をして物陰のほうへ走って行ってしまうのであった。

 続いて「Painting 2007」の『きつねとリス』を見てみよう。手前がランドルト環のように欠けた灰色もしくは銀色のリングがあり、その内側にふたりあるいは二匹が向かい合って体育座りしている(このリングの領域性はその上方にも輪が描かれることで補強されており、またその輪に垂直に接するように満月のようなものが描かれ、形態のリズムを作っている)。右がきつねで左がリスだと思われるのだが、リスが異形である。顔の造作がよくわからず、頭の上に何かカオティックな物体が煮えている。漫画の吹き出しのようなものが描かれていることから、きつねが何か話しかけていることがわかるが、吹き出しの中身は空白でその内容はわからない。きつねがその吹き出しを指差しているように見えることから、その空白が強調されているように思われる(あるいはひょっとするとこれは視力検査のときの手振りだろうか)。果たして二者のコミュニケーションは成立しているのだろうか。考えすぎかもしれないが、ひらがなとカタカナになっている題名は、非対称的な関係を表しているのかもしれない。

 同じく「Painting 2007」の『ねことねずみ』と題された二作品も見ておきたい。ねことねずみというと、食うものと食われるものの組み合わせ、捕食関係になっているわけだが、まず見る一枚目の絵画においてはこの関係がより先鋭に描かれているようである。左の黄色い顔をしたこれがねこだろう。そうすると、例によって確かなことは言えないが、右のこれ――何と言ったらいいのだろうか――がねずみということになる。「ねこ」のからだはタコのようになっていて(ところどころ痛々しく傷ついている)、「ねずみ」と接続されているようである。『ビタミン』ではないが、ねこがねずみから栄養を得ているということをグロテスクなまでに表現した作品であると考えられる。「ねこ」と「ねずみ」の形や目(?)の色が似せて描かれることで共喰いのようなどぎつさが出ている。人間に引き付けて捉えると、「食い物にする」ということを生々しく描いているとも取れる。これに対して、二枚目の絵画からは、全く異なった関係が読み取れる。二足で直立したねこが両腕を左右に広げて止まれの合図をしているように見える。その右にいて、庇われているような格好になっているのがねずみだろう。左にいるのは何だかわからないが、それに気付いたねこが前進を制していると考えられる。舞台はRPGのダンジョンだろうか。何にせよ、ここではねことねずみは仲間関係にあるようである。このようにして、この同名異作は、同じ組み合わせでも異なる関係性や物語を描きうるということを端的に示している(これは同じ役者たちが違和感なく異なる映画に出ることと似ている)。

 「AとB」タイプの作品をもうひとつ。「Drawing 2014」の『歩道橋とコーヒー – コーヒーから立ち上る湯気と歩道橋から立ち上る二酸化炭素。これらは煙だ。』は、歩道橋とコーヒーを結び付ける強引さが面白い。歩道橋から二酸化炭素が立ち上るというのはいったいどういうことなのだろうと思うが、コーヒーを背にした女性と歩道橋を背にした男性が手を取り合い、おたがいの頭に付いた煙突から出る煙が混じり合っているイメージによって、歩道橋とコーヒーが奇跡的な一致を見ている。男女の出会いを運命だと言い募る口説きのようでもある。言葉の魔法と絵の魔法、それぞれの力を感じさせる作品だ。

 この流れで『ポッキーが立つ – ポッキーから骨を思い出し、そして人類が初めて立った日のことを思いました。』(「Drawing 2014」)も見てみよう。わけもわからず爆笑してしまった作品なのだが、とにかくこの犬のような猫のような動物がポッキーなのだろう(なぜ半角なのだろう)。最初はさっぱりわからなかったが、「ポッキーから骨を思い出」すルートはふたつあるようである。ポッキーという言葉からあのグリコの棒状のお菓子が思い浮かび、そこから骨が連想されるというのがひとつ。このポッキーというキャラが犬のように見えることから、それがしゃぶるものとして骨が思い起こされるというのがもうひとつ。書いてみて思ったが非常にどうでもいい分析だった。とにかくポッキーは立った。見逃せないのが(見逃しようがないが)、「ポッキー」の文字がポッキーの傍らに配されている点である。このある種の過剰さが笑いを誘う。そしてポッキーと同じような動物が背中合わせになっているのも気になる。「ポッキー」の文字も二重になっている。よくわからないが右のピンクの魚はヒラメで、左の黄色の魚はカレイなのではないかと思った。これに関しては何も聞かないでほしい。

 文字が描かれている絵はほかにもある、というか、文字で構成されている絵がある。「Painting 2012」の『えミィでぃあトリィ Immediately』はそのうちのひとつだが、文字が描かれているとはおそらく絵だけ見ても気付かないだろう。題名を知った後でも、どこがどの文字なのかの対応を確認するのは難しい。ここで言葉は単なる音の連なりになり意味することをやめ、ばらばらの文字になり、着色され、歪形され、新しく結び合わされている。この解体と凝縮の手つきはシュルレアリスム的であるとも言える。

 先日行われた永瀬恭一氏との対談「私的占領、絵画の論理」第四回「環境と意識と絵画」(イベント概要:http://www.arttrace.org/event/shitekisenryou04.html、永瀬氏によるレポート:https://note.com/nagasek/n/n6114c5a49f00)で画家の話したところによれば、こうした文字の絵は聞き取りの失敗をきっかけとして制作されたという。意味以前の印象を絵画に落とし込んだのだと。また、日常で覚えた違和感を絵画的処理と配置によって解決しているというようなことも伺った。言語的・社会的つまずきから出発するこの方法は、個人的な問題の解決に留まらず広く秩序を作り変えるような可能性を秘めているように思われ興味深い。「Statement」を振り返れば、「単純にふたつのものが重なっているだけで、/ふたつの間には物語が生まれます。//例えばトイレットペーパーの上にりんごが/乗ると、個々に見ることとは違う予感が/得られます。」というように、画家の言う物語とは、すでに語られたものではなく、可能性として「予感」されるもの、可能性としての物語だった。だから「意味のある物語」とは、通貨のようにやり取りされる既存の意味とは違った可能性のことを言っているようだ(2020年11月現在、Twitterのプロフィール欄にある「日々の情報を、図、文、印刷、などの方法で意味から遠ざかるために作っています」の「意味」はこの通貨的な意味のことを指しているだろう)。物語は戸塚作品にすでに書き込まれているわけではなく、見るひとそれぞれが書き‐読み込んでいくものなのである。うまく接続するかわからないが、引用しておこう。「おそらく絵とは、同時にあらゆる仮説や物語の可能性であるということができる。しかしそれは絵それ自体が物語を免れているからである」(ジル・ドゥルーズ著・宇野邦一訳『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』、河出書房新社、2016年、p.97)。

 まとめておこう。私たちは、『肉体』と『からあげくん』にイメージの更新あるいは創出を、『蟻』に題名をうまく利用したイメージの重ね合わせの仕掛けを見た。題名には焦点を作る作用があるが、『ビタミン』においてはそれがただちに機能せず、その効果として鑑賞者を探査に誘うことを確認し、『うさぎとフライパン』には焦点化と周縁化が同時に起こることを感知した。『きつねとリス』からは非対称的な関係を見て取り、『ねことねずみ』二作品には関係の激化と異化、および様々な物語への開かれとでも言うべきものを見た。『歩道橋とコーヒー – コーヒーから立ち上る湯気と歩道橋から立ち上る二酸化炭素。これらは煙だ。』において言葉の力と絵の力によって遠い事物がつながれる様を目の当たりにし、『ポッキーが立つ – ポッキーから骨を思い出し、そして人類が初めて立った日のことを思いました。』で笑い、『えミィでぃあトリィ Immediately』に言葉の解体と絵画のかたちでの凝縮を見た。

 この画家はいわゆる固定観念を峻拒している。ねこはこうで、ねずみはこうで、ねことねずみはこう、というような決めつけを入念に外し、ずらすということをしているようである。題名の持つ焦点化・中心化作用や絵画を統御・支配しようとする力にも敏感である。要は言葉の力をよくわかっており、それに抵抗するような作品を作っている。対談でも言及されていたが、そうした抵抗の姿勢は色彩にも表れており、戸塚作品では多くの場合、対象物は固有色とずれた色を持たされている(色彩は戸塚作品の魅力の大きな部分を担っていると感じる。論旨と書き手としての力量不足のため取り上げることができなかったが、『夜の川』、『水道』、『電気街』、『花レ類』、『まわりしかない』といった作品に強く惹かれる。機会があれば論じてみたい)。これからも「違う認識」を存分に表現してほしいと思う。絵画と言葉のバチバチの緊張関係を、もっと見たい。

 

 

参考サイト

・Shinya Totsuka Website https://www.shinyatotsuka.com/

・一人組立(永瀬恭一)https://note.com/nagasek

・連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」 第四回「環境と意識と絵画」─戸塚伸也─ レポート https://note.com/nagasek/n/n6114c5a49f00

鉄骨

かたちあるものすべて滅びるので

テトリス テトリス

鉄骨が落ちてきて

君が消えた日は

祝日だった

 

それでも地球は運動をやめなかった

今日は太陽が近いね

肌が焼けるかすかな匂いと

芳醇な茸の香りと

街は生気に満ちている けど

 

閉店した美容院の鏡に映る君の影

 

心を落ち着かせるために

週刊誌の投書欄を見る

 

マクドナルドにパソコンを持ち込んで

 詩を書いていると

 妙な高揚感があるんですが、

 これはいったい何なんでしょうか」(二十七歳、男性)

 

「持ち込み可のテストに

 友人を持ち込んではいけないなんて

 あんまりだと思いませんか」(二十一歳、女性)

 

知らんがな

 

気を取り直して

カラオケ フリータイムで

国歌をうたって

 

吐く

 

やってられない

今日はもう退散しよう

 

夕暮れの帰路

国道沿いのコンビニで

また君の姿を見てしまう

エビマヨのおにぎりに手を伸ばして

微笑んでいるように見えた

 

ドカドカ動悸に苛まれつつ

雑誌コーナーへ

 

「あの美容院に

 彼女はまだ通っているのではないでしょうか」(二十九歳、男性)

 

「あなたが待ち合わせ場所を別のところに指定していたなら

 彼女は死なずに済んだのではないでしょうか」(三十五歳、女性)

 

頭がぐるぐるして

コンビニを飛び出す

 

看板が私を責める

どこかから歌が聞こえる

おまえのせいだ

おまえのせいだ

 

ここはどこだ

どこへ行っても

看板がある

歌が聞こえる

逃げ場はない

 

ここは事故現場だ

ここはどこであろうと事故現場だ

どこにいようと

鉄骨は落ちてくる

どうやっても逃げられない

ゲームオーバーだ

 

ぶるぶる震えながら

沈む血の夕陽を

朦朧と飲んでいる

僕の傍らに

君が

静かに寄り添ってくれる

肉、ひかりのなかへ(短歌50首)

レントゲン写真はいたく清冽でこんな言葉が欲しいと思う

 

白い朝とろりと光るぬるま湯で儀式のように薬剤を飲む

 

新しいペンを下さい新しい空を下さいさらさらのやつ

 

太陽光電池で動く腕時計高くないけど世界に見せる

 

すき焼きを毎日やろうなんて言う君が好きだが毎日はない

 

すき焼きはいつも美味しいからすごい ひかりのなかにいるような感じ

 

ゴミ袋を破らないよう割り箸を折るときに手が汚れるのやだ

 

寒すぎていろんなことが雑になる挨拶とか体の洗い方とか

 

世を捨てて小鳥を飼って暮らしたい 通販は便利だからやめない

 

滑り台逆走マンになることで秩序を乱すことを覚えた

 

特製の紙飛行機はすいーっとクリームソーダみたいな空を

 

カチューシャをあげたい女の子がいる 絶対似合うはず 死にたい

 

税金の塊としてゆるキャラを捉えたときに大人になった

 

憂国も大概にしてやることをやろう 鳥人間選手権とか

 

のど飴を転がし転がし舐めてよう夭折しそこねた僕たちは

 

生活を安定させるルーティーンとしてエロ動画を見てる節

 

ボウリングといえばセブンティーンアイス・チョコミント 昔っから決まってる

 

わたくしは一個のカメラひたひたの空はいつでも画面あふれる

 

踊る蜜 滴る桜 アクリルの絵の具飛び散る生エビの春

 

花見とはかくあるべしという確固たる信念を持った男だ

 

チョコバナナ三百円は高いので値切ろうとする君がかわいい

 

花見場の屋台のおでん千円!!! 打ちのめされて帰る僕たち

 

おはようのキスが欲しくてたまらない目をしています気付きませんか

 

春に休憩は要らない 煮沸せよ めくるめく色彩の乱交

 

煌煌と花壇は燃えて墓になりみんながそこに入ってしまう

 

戦えば負ける星空ゆらゆらとあの世のように歩いて帰る

 

雨音と和解してから眠る君 朝日はきっと優しいだろう

 

徹夜明けほろりと思い出すように感じる水の味 ほの甘い

 

また今日も知らない鳥が鳴いているカタカナで言うならばゲキョキョキョ

 

串カツがかなり美味くて若干の興奮がありやがてしずまる

 

引き算で生活するのやめません? ロケット花火バシュっと放つ

 

不都合があるとばたばた動き出すわたしのなかのなまのペンギン

 

少壮な警察官を前にして手持ち花火は無力であった

 

つやつやのライムを搾る夏の朝すこやかに鳴るガラスのチャイム

 

二組の少年少女笑う笑う最後に笑うのはわたしだが

 

本日もさけるチーズをさきまくりポンポンみたいにして食べましょう

 

耳をヤるライブハウスのスピーカー今日も明日も耳をヤるヤる

 

塩で食うほどのステーキ美味すぎて「すごい」以外の語彙を失う

 

「木刀の快感教え込まれたらもうラケットは振れなくなれよ」

 

愛猫に手を引っ掻かれオロナインひりり金魚のように悲しい

 

「見ないで これはわたしだけのテレビ 雷の映像を映すの」

 

とんかつの胡麻をジリジリと擂るときゴリラみたいに生き生きしてる

 

霊長類って字面がかっこよすぎない? 驕りが出てる そういうとこだよ

 

じいちゃんのキャベツだからか投げ捨てていつものように楽しく笑う

 

お互いの眼鏡を取ってキスをする 広告の品ゆったりと裂く

 

蕎麦だけじゃ淋しいなあと言ってしまい叱られるわたくし二十七

 

猛暑日に湿布のように伸びている幾千枚の人間にんげん

 

卓上の三ツ矢サイダー汗かいて半身浴のトンボ鉛筆

 

好きだったアニメのシール剥げかけて彼もそろそろ父親になる

 

よく跳ねる家焼肉の油からビニール手袋で手を守る

 

 

※以上50首は第2回笹井宏之賞応募原稿です(名義:水城鉄茶)。お読みくださりありがとうございました。

おすすめ本10冊

中原中也中原中也詩集』(岩波文庫

 

一つのメルヘン

 

秋の夜は、はるかの彼方に、

小石ばかりの、河原があつて、

それに陽は、さらさらと

さらさらと射してゐるのでありました。

 

陽といつても、まるで珪石か何かのやうで、

非常な個体の粉末のやうで、

さればこそ、さらさらと

かすかな音を立ててもゐるのでした。

 

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、

淡い、それでゐてくつきりとした

影を落としてゐるのでした。

 

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

今迄流れてもゐなかった川床に、水は

さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

 

 

 

石川啄木『啄木歌集』(岩波文庫

 

『一握の砂』「我を愛する歌」より

 

東海の小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて

蟹とたはむる

 

やはらかに積れる雪に

熱てる頬(ほ)を埋むるごとき

恋してみたし

 

たんたらたらたんたらたらと

雨滴(あまだれ)が

痛むあたまにひびくかなしさ

 

誰が見ても

われをなつかしくなるごとき

長き手紙を書きたき夕(ゆふべ)

 

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

花を買ひ来て

妻としたしむ

 

 

 

・渡辺玄英『渡辺玄英詩集』(現代詩文庫)

 

『海の上のコンビニ』

クジャクな夜」より

 

いくところないから

コンビニに行ってきました

ほしいものないから

孔雀をほおばってみました

つめたい夜空でした

(きれた電池はどうしようか? きれた電池は?

 

 

「ハロー ドリー!」より

 

ぼくが見るのは

屈葬の夢だ

手足をまげて赤土のなかで眠っている

ひたいのうえに小鳥の卵がのこされていて

青空がつまっている

というのは本当だろうか

 

こんな青空

動脈の赤

静脈の青

街路樹のくろいひび割れ

街を歩くと

舗道のうえに生卵がつぶれていて

見あげると

電線に幼児がぷらぷらぶらさがっている

 

 

 

川田絢音川田絢音詩集』(現代詩文庫)

 

『空の時間』より

 

 1

血いつも血

青が青いように

渇きで熟れるオレンジのひっきりなしの爆発

 

 3

無垢な窓を

内へ

内へと

開け放って

悲鳴ははれやかに疾走しなければならない

 

62

すべてが翔ぶ

永遠に見られない手鏡の中の血のように明るい青空へ

 

 

石原吉郎石原吉郎詩集』(現代詩文庫)

 

『いちまいの上衣のうた』より

 

花であること

 

花であることでしか

拮抗できない外部というものが

なければならぬ

花へおしかぶさる重みを

花のかたちのままおしかえす

そのとき花であることは

もはや ひとつの宣言である

ひとつの花でしか

ありえぬ日々をこえて

花でしかついにありえぬために

花の周辺は的確に目覚め

花の輪廓は

鋼鉄のようでなければならぬ

 

※『続・石原吉郎詩集』もどうぞ。

 

 

 

・永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(BookPark

 

あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる

 

くちばしを開けてチョコボールを食べる 机をすべってゆく日のひかり

 

自販機のボタン押すホットミルクティーが落ちるまで目をつむってすごす

 

ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいったしコンクリを撮る

 

カラオケでわたしはしゃべらなくなってつやつやと照るホットコーヒー

 

 

 

舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』(講談社文庫)

 

僕は智依子に振り払われた手でもう一度智依子の手を取る。もし智依子の言うことが本当で、万が一、万が一、智依子の身体の一部が失われてしまい、そのことで智依子が全く新しい人間に生まれ変わってしまったとしても、僕のことを、じゃあもう一回最初っから、ゼロから、好きになってほしいと思う。僕は智依子にそうお願いする。それから僕は、僕は智依子のことがずっと好きだから、智依子をもう一度捕まえて、智依子にもう一回僕のことを好きにならせてみせる、と言う。すると智依子は言う。でも巧也だって、もう前の私とは違う私のこと、ちゃんと好きなままでいられる?ホント、私が全く別の女の子になったとしても?僕はそんな質問には答えられず、黙ったままで智依子のあのASMAの浮かんで消えた左腕を取り、唇をつける。智依子の肌だ。細かい粉を吹いているようなすへすへの肌。/ごめんね、巧也、私はただ、私は私のままでいて、ずっと巧也のことを好きなままでいたいと思ってるってこと、言いたいだけなんだけど……。

 

 

 

西尾維新きみとぼくの壊れた世界』(講談社ノベルス

 

「校舎から飛び降りてもひょっとしたら生き残れるかもしれないけど、宿題なんかやったらわたし、死んじゃうよ。」

「きみの頭は髪の毛を育てるための苗床か? 違うというのなら少しは論理的に考えるということをしたまえよ。」

「僕だけは、きみの嘘を見抜いてあげる。」

 

 

 

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫

 

知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか、(…)知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだ(…)。

 

※四部作の続き『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら快傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』も素晴らしいのでぜひどうぞ。

 

 

 

上野修スピノザの世界』(講談社現代新書

 

ニーチェ好みの「善悪の彼岸」である。しかしニーチェは「神の死」を引き受けようとして孤独だったのに対し、スピノザは彼の神とともにいた。だれの手も煩わせずに、いわば勝手に救われていたのである。